October 31, 2005
これまでの長い人生で舞台に立った経験はたった一度、小学六年生の学芸会だけ、というこの身にとって、芝居や演技の神髄が何かってことには、まったく語るべき言葉をもたない。そんな素人にとって、唯一、役者はすごいなぁ、と思い続けてきたことがある。それは、涙である。役者は、ここぞという場面で、実に見事に涙を流してみせる。たとえそれが嘘の涙だとしても、そういう場面を見るたびに、わたしはちょっとした感動をおぼえる。
プレイメイトの「フェイス インフェイス」で印象深かったのも、NYLON100℃からの客演、新谷真弓の涙である。まさにハイライトともいうべき場面で、彼女のほろっとこぼした一粒の涙は、一瞬頬を伝い、白い衣装に吸い込まれていった。ほんの数秒間のことだったけれど、わたしの目はそのシーンに釘付けとなってしまった。破天荒で、スラップスティックなところのあるこの芝居を、ぐっと引き締めたのは、まさにあの場面だったと思う。
さて、「フェイス イン フェイス」は、ほぼ一年ぶりのプレイメイトの公演である。前回の「SWAP2004」は、京晋佑や野口かおるの達者な客演もあって楽しい舞台だったが、今回は、実際にも東映の戦隊ヒーローものに出演していたイケメン男優である西興一朗をゲストに、心に翳りをもつ整形外科医と屈折したイケメン俳優の10年にもわたる奇妙な医師と患者の関係を描いていく。
人気の美容整形クリニックに、若い俳優が訪ねてくる。彼、里中修介(西興一郎)は、自分が俳優として成長を遂げていくためには、自分のイケ面がどうしても邪魔だといい、整形外科医の海老原(近江谷太朗)に、自分の顔をブサイクにしてほしいと頼み込む。里中の不躾な態度と不可解な願い事に困惑する海老原だったが、結局は長い時間をかけて、彼の願いを叶えることを承諾する。
通院を重ねるうちに、里中は看護婦の新堂加奈(新谷真弓)と関係を持つようになるが、患者との関係を問い詰める海老原に対して、新堂はそれを否定する。そんなある日、海老原のもとに、高校のクラスメートだった船越(平賀雅臣)が訪ねてくる。彼は、自分の妻を帰してくれるように脅したり、すかしたり、海老原に懇願する。船越は、居合わせた里中に叩き出されてしまうが、翌日刑事(平賀の二役)が海老原を訪問し、船越が何者かに殺されたことを伝える。
サイコロジカルスリラー仕立ての凝った内容である。船越が登場するあたりから、海老原という人物の翳りある部分が次第に浮上し、やがて物語の構図そのものが反転する。説得力にやや不足があるような気もするが、このあたりの構成の妙味は面白いと思う。
テーマの根底には、容姿に対するコンプレックスというのがあって、それをこういうサスペンス劇で表現しているところに感心した。美人と不美人、そしてハンサムとブサイク。その両サイドを行き来する手段として、美容整形というガジェットを実に巧妙に使いこなしている。
新谷真弓は、一見大味な芝居ぶりなのだけれど、里中との濃厚なラブシーンや海老原への切ない思いなどを、場面場面を演じ分ける達者ぶりに感心させられた。とりわけ、先の涙の場面は、ぞくぞくするほどの感動をおぼえた。今度は、是非ホームのNYLONの舞台で元気な姿を見せてほしいものだ。
主要な登場人物のうち、近江も平賀もいい芝居ぶりだが、西はもうちょっと台詞をきちんと入れてこいよ、と思わせる場面が多かった。あ、これはイケメン俳優に対するコンプレックスからの発言ではありませんよ。
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October 15, 2005
ミステリがルールの上に成り立っている文学であるということは、いうまでもない。しかし、一方では何かが成長していく過程において、殻を破ることは避けられない必然だということも事実なのであって。そういう意味で、ミステリ小説が進化を遂げようとしたとき、そこにはちょっとしたジレンマが出現する。なぜなら、殻を破ること、すなわちルールを破ることは、ミステリであることのアイデンティティそのものを破壊してしまう可能性があるからだ。
そんな掟破りを事もなげにやる作家が、麻耶雄嵩である。今回の『神様ゲーム』も、そんな作者の破戒の精神があますところなく発揮されている。主人公の芳雄は小学校高学年の少年である。同じ町内に住む学校の仲間たちと探偵団を結成し、秘密基地を作ったりして遊んでいる。仲間の中には憧れのミチルちゃんがいるが、親友の英樹は住んでいる町が違うので、仲間に迎えることができない。
ある日、芳雄は当番で掃除の最中に、クラスメートの鈴木君に話しかける。転校生で、あまり目立たない存在だった鈴木君だが、彼は芳雄に自分は神様だと告げる。この宇宙で、彼の判らないことや、思い通りにならないことは一切ないと淡々と語った。鈴木君は、未放映のTV番組の内容も、そして最近このあたりで起こっている連続猫殺しの犯人名も簡単に教えてくれた。
探偵団の面々は、猫殺しの容疑者をマークするが、そのさ中、密室状況の古井戸の中で芳雄の親友英樹が死体になって見つかる。親友の死に思い悩み、苦しんだ挙句、芳雄は鈴木君に、英樹殺しの犯人に天誅を食らわすように頼みこむ。しかし、その直後に死んだのは、まさかと思える人物だった。
子どもたちの世界を、いかにもジュブナイルのタッチで見事に描いている。さらにミステリとしても、親友英雄の密室状況の死をめぐる謎解きにしても、意外な真犯人へ到達する論理的な筋道にしても、非常によく練られていると思う。ただし、最後に待ち受ける本当に意外な結末の直前までは…。
いや、ミステリの話をするとき、最後にサプライズエンディングが待ち受けていることを明らかにすること自体がタブーなのだが、この「神様ゲーム」に関しては、それを抜きには語れないだろう。確かに意表を突かれるし、びっくりもする。しかし、明かされる真相に、合理的な伏線や手がかりがあったかというと、どうも思い当たるものがない。それでも、この結末を持って来るあたりに、麻耶雄嵩という作家の孤高のミステリ感が色濃く現れているように思う。また、神という存在が、一種のメタミステリとしての仕掛けとしてではなく、麻耶ミステリのメタファーとして象徴的なのがいかにも面白い。
児童向け叢書の一冊ということもあって、「子どもには読ませられない」という書評ばかりが目についた本作だが、個人的には読書好きの少年少女にこそこの本を積極的に進めてみたい気がする。そもそも本好きの彼らには、大人のわれわれが被保護者として見下す以上の耐性と新しい価値観への好奇心があるように思えるのだが。原ますみの装画と挿絵もいい味を出していると思う。
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October 13, 2005
長い間、ハットフィールド&ザ・ノースは、機会があればライブを聴きたいバンドのひとつだった。といっても、彼らの代表的なアルバム「ハットフィールド&ザ・ノース」、「ザ・ロッターズ・クラブ」がリリースされたのは、今から30年ほども前のことなので、当時はカンタベリー・サウンドへの興味が希薄だったこともあって、リアルタイムの彼らについての記憶は殆どない。ただ、印象的なジャケット・デザインは目に焼き付いていて、CD化が実現するとすぐに手に入れて、自在で親しみ易いサウンドにたちまち魅了された。
そういう意味では、わたしの中では彼らは古典という位置付けなのだけれど、バンド自体は再結成以来ライブもしっかり行っているようで、その音源も耳にしたことがある。演奏の内容は、かつての延長上にある演奏のように思えたものの、やはりライブとなると期待が一段と高まるのがファンってもんで、来日公演のチケットはいち早く手に入れてあった。
ライブは、予想通り穏やかな幕開け。最初の数曲は調子がいまひとつの感じもあったが、だんだんとエンジンがかかる。リチャード・シンクレア(b,v)、ピップ・パイル(d)、フィル・ミラー(g)、アレックス・マグワイア(kb)といった名うてのミュージシャンが揃っているだけあって、ソツのないインストが展開されていく。サウンド自体に派手さはないが、各プレイヤーの円熟したプレイは、耳を傾けていてたおやかで、とても心地よい。そうそう、これぞH&TNだ!
今回のライブで印象的だったのは、出番がまわってくると前面に出てくるキーボードで、ツアーに同道したアレックスはハットフィールド&ザ・ノースのファンだったそうだが、かなりのアピール度。キーボードが入っただけで、がらりと雰囲気が変わる演奏ぶりが面白かった。
もちろん、オリジナル・メンバーたちのプレイぶりも素晴らしく、リチャード・シンクレアにはいつになく余裕のようなものがあったし、歌声にも味があった。フィル・ミラーの自在なギターも、心地よい音色を奏でていた。ピップのドラムスが全体を引き締めていたのは当然のことだが、彼は隙さえあればすぐにカウントをして曲に入ろうとするのがおかしかった。他のメンバーは、聞こえてないフリをして、悠々とチューニングしたりしてたけどね。
全体で2時間半くらいの演奏が二部構成になっている。(休憩20分)出来は、後半の方が圧倒的によく、メンバーたちも気分が良さそうだった。わたしが観たのは初日だけれど、翌日の方がよかったかも。なお、この日の演奏は、ライブCDとしてリリースの予定があるそうだ。
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October 12, 2005
ちょっと乱暴な物言いになるやもしれぬが、未熟さが醸し出すテイストというのがあるように思う。例えば、どこか青臭く、ぎこちない中にも、芝居本来の原初的なエネルギーが伝わってくるような芝居、とでもいったらいいだろうか。そういう芝居が好きで、かつての山の手事情社やZazou Theaterといった大学の劇研出身の劇団に、よく足を運んだものである。早稲田大学の大隈講堂裏の怪しいエリアにある劇研のアトリエにも、行ったっけなぁ。
最近でいえば、双数姉妹からもやはりそんな懐かしさのようなものを感じたけれど、彼らの芝居自体は、かなり洗練された完成度の高いものだった。その点、今回初めて観る〝拙者ムニエル〟には、そんなプリミティブなテイストが非常に濃い。いや、ずばり言おう。フレッシュで元気いっぱいな芝居ではあったのだが、しかしどこか稚拙さが前に出てくる。いや失敬、決して彼らの芝居を腐しているわけじゃなくて。
彼らの「FUTURE OR NO FUTURE」は、主人公のマルオ(村上大樹)が、原作、演出、主演を自らがこなし、大人の恋愛をテーマにする宣言の場面から、物語の火蓋が切って落とされる。小さな劇団を主宰するマルオは、ある日中学時代のあこがれの同級生ヨメコ(町田カナ:reset-N)と再会し、会ったとたんにふたりは恋におちる。まさに奇跡とも呼ぶべき偶然の再会で始まったマルオとヨメコは、めでたく結婚するが、おたくでコンプレックスの固まりのマルオとミス日本に輝くヨメコでは価値観が合うはずもなく、たちまちのうちに離婚の危機が訪れる。
そこで、マルオには、ふたつの可能性が提示される。すなわち自らを悔い改め、再度切磋琢磨して、再びヨメコにプロポーズを捧げるフューチャー。一方は、自暴自棄に陥り、滅茶苦茶をやった挙句に、すべてを失うノー・フューチャー。う×こから作られた二体のクローンが、フューチャー、ノー・フューチャーというマルオのふたつの可能性を辿り始める。
とにかくエネルギッシュ。役者たちも、ほとんどが大味な芝居ぶりにうつるのだが、それを強引なストーリー展開で物語の大車輪を廻していく。隙間のない展開は、やや息苦しい感じもあるが、芝居としての密度は高い。結構、いきあたりばったりの展開と思わせておいて、最後はきちんと着地するあたりも、作・演出の村上大樹はなかなか冴えている。
そうなると、最初は観ていられない場面もあった役者たちに輝きが感じられるようになるから不思議だ。とりわけ、負け犬OL役がはまっていた成田さぽ子が面白く、終盤はいい芝居をしていたように思う。ギャグは、質よりも量という感じでしょうか。それでも、これだけの物量作戦でこられると、さすがに圧倒される。それなりに楽しめた初めての拙者ムニエルでした。
蛇足だけれど、わたしが足を運んだのは初日で、この日は入場料が500円安かった。こういうのは、ちょっと嬉しいね。
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October 02, 2005
かつてJR大阪駅の前で、地元のあんちゃんたちとおぼしきバンドが、電源車を傍らに停めて、ストリートライブをぶちかましていたのに出くわしたことがある。もう夜もいい時間で、歩いているわたしもちょいとほろ酔い気分だったのだが、彼らが演奏しているノリのいい〝クロスロード〟を聴いて、ほぅ、ロックのストリートライブもいいものだな、と思った記憶がある。
しかし、同じストリートライブでも、これはまた雰囲気がまったく違う。東京メトロ銀座駅の地下コンコースの片隅が会場で、天井も低ければ、すぐ横をサラリーマンやOLも行き交っている。Metro Music Oasisという東京メトロ主催のイベントで、4回目にあたる今回は、2夜を2アーティスト(大高清美と新澤健一郎)がそれぞれ2セットづつのライブを行った。
わたしが足を運んだのは、オルガン・プレイヤーの大高清美が率いるグループの方で、告知用のポスターに載ってた紹介文にちょっと興味を惹かれたからだ。すなわち、〝彼女のオルガンプレイは、既成概念を超えている。ジャズもロックもプログレもファンクも飲みこみ、ある時は叙情的に、ある時は変拍子を多用したメカニカルなプレイ、その二面性が同時にサウンドとなって押し寄せる。〟(ポスターから引用)ま、早い話が、〝プログレ〟の二文字につられたのである。
大高清美の名は、不勉強なことに初耳なのだが、プログレのフィールドでもあまり話題になったことがないのではないか。しかし、この日の演奏を聴いてみて、乾いていながら、どこか湿った感じのオルガンの音色は、なるほどルーツとしてのプログレを十分に感じさせるプレイヤーだと思った。ジャズ、フュージョンのキーボードというよりは、オルガンへの拘りが感じられ、どことなくブリティッシュ・ロックにルーツがあるような気がする。
ソロのパートになると、結構重量感のあるプレイを展開し、テクニック的にも十分な手ごたえがある。彼女の書く曲は、フュージョン、クロスオーバーにありがちな曲展開が目立つものの、ここぞという場面には、印象的なフレーズがさりげなく飛び出してくる。すでに5枚にも及ぶリーダーアルバムをリリースしているという自信にしっかりと裏打ちされた演奏ぶりにも好感がもてた。
この日のメンツは、大高清美(org)、矢掘孝一(g)、岡田治郎(b)、菅沼孝三(d)のカルテットで、バックのメンバーたちが所属するFragile、Prismなどの音ともシンクロする演奏だったが、予定調和のフュージョン・サウンドをぶち壊すかのように、菅沼がここぞという場面にくると、大胆不敵なソロパートを繰り広げてくれたのが愉快だった。菅沼のドラムというと、プログレ・ファンとしては、Blackpageでの破天荒なドラミングが強烈な印象に残っているが、この日の演奏も、ややもするとリーダーの大高をも食ってしまうほどの存在感を誇っていた。
大人の町銀座で、夕方の雑踏を横目に聴くロック(それもプログレ)、なかなかいいものでありました。
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October 01, 2005
井の頭線の駒場東大前にあるこまばアゴラ劇場は、8月からここのところずっと〝S高原から〟一色である。4人の演出家たちによる異なったバージョンをシャッフルした〝にせS高原から〟の連続公演に続き、平田オリザ自らが演出する青年団の「S高原から」がそれを締めくくるというスケジュールが組まれているらしい。そこまでやるなら、わたしもこのあたりで名作の誉れ高き「S高原から」を観ておこうかと思い立ち、足を運ぶことに。
わたしが観たのは、五反田団の前田司郎が演出を手がけるバージョンだが、本家を入れて5つの選択肢からこの「にせS高原から」を選んだ理由は、さほど明確なものではない。贔屓の小劇場系の役者がもっとも多いセットだったことと、自分のスケジュール上だけのことである。「S高原から」は、どちらかといえば固く真面目な芝居という印象が強いので、せめて役者くらい馴染みが多い方が楽しめるのではないか、と思った次第である。
カーテンコールで舞台上に出演者が揃った時に、改めてびっくりした。群像劇だということは観ている最中から十分に理解していたつもりだけれど、こんなにも多くの役者たちが舞台に上がっていたのか。物語については、明確なストーリー性はない。高原のサナトリウムの患者たちと、それを見舞いにやってくる患者の友人たちの人間模様とエピソードが、実に淡々としたタッチで繰り広げられていく。
ストーリーの輪郭は曖昧だが、印象的な人物の結びつきがいくつか登場する。もしかすると、そのどれに興味を惹かれるかは、まさに個人によってさまざまかもしれないが、わたしの場合、三組のカップルが心に残った。その三組とは、西岡隆(黒田大輔:THE SHAMPOO HAT)と上野雅美(立蔵葉子:青年団)、村西康則(大島怜也:PLUSTIC PLASTICS)と大島良子(内田慈)、それから福島和夫(増田理:バズノーツ)と坂口徹子(大倉マヤ:双数姉妹)である。
それぞれの関係のありようは、まったくと言っていいほど異なる。恋人を遠ざけようとする男と婚約を解消しながらも男への思いを断ちきれない女、恋人を待ち焦がれる男と友人を介して別れ話を持ち出そうとする女、余命いくばくもない浮気男とそれでも彼を愛する女、などなど。彼らの男女関係は、物語の悲劇的な側面を象徴するかのように、物語の中心に据えられており、それ以外の人間関係がこれを衛星のように取り巻いて、この死をめぐるドラマを形成している印象なのである。
そこはかとないユーモアを感じさせる演出は、逆に死のイメージを浮き彫りにしようという演出者前田の意図だったのだろうが、それが成功しているかというと、ちょっと微妙なところかもしれない。わたしとしては、ユーモラスな味付けからはストレートに軽快さを読み取り、死の影にはむしろ薄い印象をもった。
登場人物が多いと書いたが、それがゆえに存在感を観客に与えないまま終わってしまっている役者たちもいた。例えば、公演期間前半を病気で休演したからだろうか、Hula-Hooperの菊川朝子など、もう少し個性が前面に出た役柄を演じても良かったと思う。溌剌とした存在感があるのに、もったいない。そのあたりに、このバージョンの未醗酵な部分が垣間みえるような気がするが、それは穿ち過ぎだろうか。一方、先のTHE SHAMPOO HATの公演「事件」では、いまひとつとらえどころのなかった存在の黒田が、この作品の中では実にいい味を出していたことも記しておきたい。
ともあれ、予想以上に面白い芝居だったことは事実である。役者たちのコラボレーションも、なかなかだったと思う。正直、他のバージョンも観てみたかったが、時間の都合でそれが適わなかったのが、なんとも残念である。
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