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September 29, 2005

レイクサイド マーダーケース (2005)

lake1原作は、東野圭吾の「レイクサイド」。それを映画化にあたって、「レイクサイド マーダーケース」とした製作サイドのセンスをまず称えたい。ミステリのタイトルでは定番ともいうべき殺人事件(マーダーケース)という響きには、安直さと裏腹の不思議な効果がある。それを付けただけで、謎解きや犯人探しの興味がぐっと前面に出てきた感じがする。ま、マニアックなミステリ・ファンのおたくな妄想やもしれないが。
主人公のカメラマン並木俊介(役所公司)が、仕事明けの朝に駆けつけた先は、湖畔のバンガローだった。そこでは、名門中学受験を目前に控えた子どもたちとその家族が集まり、塾の講師を招いて合宿を行っていた。集まった家族は3組。すでに妻の美菜子(薬師丸ひろ子)とは離婚している俊介だが、娘の舞華の受験のためにふたりで参加していた。講師の津久見(豊川悦司)は、子どもたちに勉強を教える一方で、両親たちには親子面接の手ほどきをしていた。
ところが、その夜、雑誌編集者の英里子(眞野裕子)が、バンガローに現れる。彼女は、俊介の浮気相手だった。彼女が現れた理由が分からないまま、表面を取り繕う俊介。夕食の食卓をともにし、ホテルへ引き上げた彼女を俊介は追うが、英里子とは会えなかった。そんな彼をバンガローで待ち受けていたのは、深刻な顔をした両親たちだった。そして、彼らの傍らには英里子の死体。俊介の恋人が現れたことに逆上した美菜子が、花瓶で撲殺したのだという。スキャンダルを隠蔽するために、死体処理への協力を迫られた俊介は、藤間(柄本明)関谷(鶴見辰吾)とともに、死体を車で運び、顔を潰した上で重しをつけて湖に沈める。
ミステリ映画としてはよく出来ている。東野圭吾の原作は、「秘密」や「白夜行」など、代表作といわれる作品に較べると知名度は低いかもしれないが、伏線の張り方から意外な犯人までがなかなか気が利いていて、本格ミステリとしてのクオリティは非常に高い。この映画は、原作のそんな長所を見事に引き継いでいると思う。
主演の薬師丸ひろこは、あきらかにかつての「Wの悲劇」を引き継いだ役柄の造形となっているが、往年の輝きこそないものの、堅実な演技で難しい役をこなしている。役所公司もいまさらでもない好演だが、物語に膨らみを与えているのは、豊川悦司、柄本明、杉田かおる、鶴見辰吾、黒田福美といった脇役陣だろう。彼らの癖のある存在感で、推理劇としての面白味はかなり高まったといっていい。
お受験という社会派のテーマへも接近するが、基本的には本格ミステリとしての謎解きがなんといってもセールスポイントで、映画化にあたって原作者の東野が「そう料理してもいいが、犯人だけは変えないでくれ」と言ったとか、言わなかったとか。もちろん、犯人は原作どおりである。
だだし、原作は種明かしが終わったあとも、余韻を醸すことに成功していたが、映画ではそれに失敗している。いくらなんでも、あの幕切れでは、きちんと着地が出来ているとは言い難い。B級のホラー映画じゃあるまいし、もう少し気の利いたエンディングがほしかったところである。[★★★]

(以下ネタバレ)
犯人は、子どもたちの誰か(または全員?)だった。裏口入学の不正をめぐって取材をしていた英里子が津久見に問い正しているのを耳にした子どもたちのひとり(または全員)が、彼女を湖畔の砂地で撲殺したのだった。それを津久見が発見し、俊介と美菜子の夫婦関係を利用し、美菜子が殺したことにして、事件を隠蔽しようとした。自分の子どもが3分の1の確立で犯人であること、さらにはこのスキャンダルがもとで受験に失敗することを恐れた俊介以外の親たちは死体処理の協力したのだった。その事実を知らされた俊介も、また事件の真相を胸の奥に封印する決心をする。

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September 25, 2005

いのうえ歌舞伎「吉原御免状」●SHINKANSEN☆PRODUCE (青山劇場,05.09.08)

yoshiwara思えば遠くへ来たものだ。いやなに、劇団新感線のことである。手もとの記録をひっくり返すと、わたしが初めて彼らの芝居を観たのは、1988年10月新宿シアター・トップスである。チケットの控えには、〝東京公演第2弾〟とあり、演目は「宇宙防衛軍ヒデマロ3」と書かれている。古田新太はすでに主役として堂々たる芝居をしていたけど、羽野アキなんて、まだ開演前には客席でコロッケ売ってたもんなぁ。まだまだ商業演劇よりは、学芸会との距離の方が近い感じで、とにかくバイタリティと笑いで押し切る若さが売りの劇団だった。
それから17年目が過ぎ、ここ1年の間に東京で新感線の芝居がかかった小屋は、日生劇場1回、帝国劇場が1回、そして青山劇場が2回。いやはや、すごい出世ぶりである。もちろん、その時間の隔たりからは、さまざまな成長がうかがえるわけだが、彼らのルーツであり、最大の売りでもある大衆演劇の醍醐味と、こてこての笑いのセンスが失われていないのは、すごいことだと思う。
さて、昨年の末から今年にかけての新感線は浮き沈みがあって、春に「SHIROH」というとてつもない傑作を放つ一方、続く「荒神(ARAJIN)」ではジャニーズに魂を売ったかと悪口が囁かれた。今回の「吉原御免状」は、堤真一を主演に招くということもあって、当然ファンの間での期待値は高い。ただひとつの不安材料は、劇団初の原作もの(故隆慶一郎の同名の小説が原作)であるということだろうか。
賑やかな江戸の花街吉原。そこに、西からひとりの若武者が訪ねてくる。彼の名は松永誠一郎(堤真一)。彼は、父親の遺言にしたがい、この吉原にやってきた。純真な心の持ち主であるが、剣にかけては神がかりの腕前。街の主である幻斎(藤村俊二)の後ろ盾もあって、吉原は町をあげて成一郎を歓迎し、人気を二分する花魁の勝山(松雪泰子)と高尾(京野ことみ)にも気に入られる。ところが、そんな誠一郎の命を狙う集団があった。柳生義仙(古田新太)率いる裏柳生の一群であった。彼らは、なぜ誠一郎の命を狙うのか?そしてまた、誠一郎と吉原を結びつける世間に知られざる秘密とは?
不勉強なことに原作には目を通していないのだが、想像するに伝奇小説的な色合いが強いようで、そういう意味では破天荒やサプライズを大胆に使う新感線の芝居にはマッチするという計算が最初にあったのではないか。なるほど、ある剣豪と結びつく誠一郎の出生の秘密や、吉原誕生の秘話、そして影武者徳川家康のエピソードまで飛び出す盛りだくさんの伝奇的要素は、いかにもいのうえ歌舞伎向けの題材だといえる。
それでいて、どこか盛り上がりを欠く印象があるのは、内容の割には上演時間が短いこと(いや、正味3時間はそれ自体十分に長いのだが)と、やはり隆の原作がどこか中島かずきといのうえひでのりの演出に微妙なズレがあるからかもしれない。隆の原作と、新感線の芝居は、似て異なるもの、ということなのだろうか。
役者でいえば、古田新太が悪玉として久々に豪快で切れのいい動きを見せてくれるが、堤真一にそれを上回る善のパワーがいまいち感じられないのが物足りない。松雪、京野という女優陣が、華となってかなり主役を盛り立てようとしてはいるのだが。
さらにキャステイングについては、藤村俊二の幻斎役にもやや疑問がある。存在感に独特の味があることは十分に認めるのだが、あの役は重すぎる。その傍らでは、新感線の役者たちが軽い役を見事に演じているだけに、それが目立ってしまう。肝心の場面で幻際の存在感が希薄になるのは、大きな疵だと思う。
といった具合に、期待値に比しては、厳しい評価にならざるをえないのだが、それなりに楽しめる新感線の舞台であることは、言うまでもない。ま、木戸銭が10000円を越えるのだから、客としてそれくらいの文句は言って当然だろう。個人的に印象に残ったのは、吉原の町の広がりを回転舞台で上手く見せたところだ。舞台中央にしつらえたスロープ(そこを堤が駆け降りたりする)の使い方も良かった。
なかなか小さな劇場では採算のとれにくい劇団になってきているとは思うが、このあたりでコアな新感線の芝居を観てみたい気がする。それも、劇団のオールスターキャストで。そう思うのは、わたしだけだろうか。

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September 24, 2005

ゆらゆら帝国 LIVE2005ファイナル (日比谷野外大音楽堂,05.09.04)

yura先のCLUB CITTA'川崎の入り口で配られたフライヤーに、この日のアナウンスがあった。4月のフリーライブの際には行けず、今回の野音はぜったい、と思っていただけに、チケットがとれてラッキー。降水確率高い天気予報は微妙だったけど、(昼には降ったが)なんとか天候はもった。夏の終わりの暑さはあるが、この時期夕刻ともなると気温もやや下がってくる。おまけに、ときたま吹いてくる風が実に心地よい。これまた、ラッキーだ。
宵闇迫る野外音楽堂は、都会の喧騒も聞こえてこなければ、近所に音が洩れても心配ない(?)。都心にありながら、日比谷公園の緑に囲まれた稀有なロケーションだ。ライブバンドだったら、ぜひ立ってみたいステージではないだろうか。座席も非常にゆったりしているし、観客席のスロープも理想的。客からみても、理想的なライブ会場だ。
開演時間をほんの少し過ぎて、例によって3人がのっそりと登場する。「あ、どうも」という素っ気ないMC(?)に続いて、おもむろに演奏に入るのは、CLUB CITTA'川崎の時とまったく同じ。しかし、曲が進んでいくにつれて感心したのは、前回の時とほとんど曲がかぶっていないことだ。持ち曲の多い彼らならではのフレッシュな選曲で、ステージは進められていく。
中盤あたりから、最新アルバム〝Sweet Spot〟からの曲をやり始めて、テンションは次第に高まっていく。ふと気づくと、すっかりまわりは暗くなっている。そんな中に、あやしく浮かび上がる3人の演奏姿。いつものように、間奏に入るや、痙攣をおこしたかのように怪しい動きで乗りまくる坂本慎太郎のギターが吠える。サイケな轟音を振りまきながら、インプロ風に曲を盛り上げていく、いいなぁ。そして、あっけなく「じゃ、次が最後の曲なんで。今日は、どうも」と、これまた素っ気なくしめくくる。もちろん、アンコールはなし。
翳りと湿り気のあるゆら帝の曲が、野外の解放的な会場に合うかは、正直言って半信半疑だったが、なかなか爽快で気分の良い体験だった。ステージ上のメンバーは、ホールだろうが、野外だろうが、お構えなしかもしれないが、客は明らかにゆったりと寛いでいた。暮れなずむ夏の終わりの夕べに、サイケでラウドでフリーキーな演奏を堪能したライブでありました。

(セットリスト)
1)太陽の白い粉 2)ミーのカー 3)砂のお城 4)傷だらけのギター 5)夜行性の生き物3匹 6)すべるバー 7)誰だっけ? 8)つきぬけた 9)侵入 10)無い!! 11)男は不安定 12)針 13)はて人間は?
14)急所 15)貫通前 16)タコ物語 17)ロボットでした 18)ソフトに死んでいる 19)2005年世界旅行 20)通り過ぎただけの夏

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September 23, 2005

「少女には向かない職業」で知る桜庭一樹に向く職業

shouyzo女性でもなければ、ティーンエイジャーでもないわたしが、この小説を評して〝少女のビビッドな感性〟などというのは、さすがに片腹痛い。しかし、桜庭一樹の『少女には向かない職業』は、まさに十代のある一時期をそのまま切り取って小説にしたような、瑞々しさに溢れている。山口県下関市の沖合いに浮かぶ島で暮らす少女を主人公に、ひと夏のあまりに衝撃的な出来事を描いて、青春小説の清々しさと犯罪小説のスリルを見事に両立させているのだ。
主人公の大西葵は13歳の中学生。人前では明るく、ひょうきん役を演じたりする彼女だったが、アル中で暴力をふるう義理の父親やいつも疲れ切っている母親と暮らす毎日に、深い憂鬱を抱えている。唯一の楽しみはゲームで、同じ学年で近所に住む少年颯太と連れ立っては、島のゲームセンターへ足繁く通っていた。そんな葵が今夢中になっているのはドラゴンの育成ゲームで、颯太と組んで大会に出場するほど熱中していたが、ある日、大切なメモリーカードを父親に握り潰されてしまう。さらに、幼馴染だった颯太にガールフレンドが出来たりしたこともあって、夏休みに入ると、彼女は殻に閉じこもったように戦時中に残された廃墟で、ひとりニンテンドーに明け暮れるようになる。
そんなある日、偶然、廃墟でクラスメートの静香と顔をあわせる。クラスでは目立たず、ほとんど口もきいたことのない彼女だったが、図書委員で本には詳しく、読書が苦手な葵に印象的な本を奨めてくれたことがあった。葵が口にした義理の父親に対する鬱憤に対し、ドストエフスキーの「罪と罰」を差し出し、義父を亡き者にするヒントを与える静香。かくして、ふたりの少女は、彼女たちを取り囲む周囲の状況に対し、静かな、しかし激しい闘いを挑むことに。
伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカー」で幕を開けた東京創元社の〈ミステリ・フロンティア〉も、この作品で十九冊を数える。もちろん商売度外視というわけにはいかないのだろうが、新人の育成にあまり熱心とは思えないわが国の出版界において、この叢書が果たしている若手作家のステップボードとしての機能はあなどれない。桜庭一樹も、〈ファミ通えんため大賞〉の佳作入賞で登場したライト・ノベル系の新人作家だが、この「少女には向かない職業」でミステリ作家としての片鱗を十分に覗かせたと言っていいだろう。
ティーンエイジャーの少女を描くことにかけては定評のある作者だけに、ヒロインの葵と静香が、互いの違いを意識しながらも、孤独が呼応するかのように仲を深めていく過程の描き方がケタ外れに上手い。もうそんなリアルな少女世界だけでひとつの物語世界を構築している感のある作者だが、本作ではされにミステリ的な要素を、大胆に付加してみせる。
二人の少女の間にやがて浮上してくる交換殺人のテーマ、また見方をかえれば、人間の心のダークサイドを描くという意味で、ノワールの要素もある。詳しくは書けないのだが、カトリーヌ・アルレーの大胆不敵な引用に至っては、その凝りように思わず溜息が出る。
ライト・ノベルに縁のない読者は、武器の調達のお手軽さなどに、隣り合わせになっているゲーム世界との壁の薄さで興ざめするかもしれないが、それとて小説としての疵とはなっていない。P・D・ジェイムスから頂いたとおぼしきタイトルは、ミステリ・シーンへの頼もしい名乗りだろうか。ミステリ・ファンのひとりとして、こういう作家の参入が、シーンにどういう活性化をもたらすか、非常に楽しみだ。

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September 21, 2005

上海~新人少女歌手・青春シャンソンショー~●B-amiru Short Play LIVE vol.9 (下北沢OFF・OFFシアター,05.09.02)

syanhai今年オープンした吉祥寺シアターの柿落としとして6月に上演されたKERA・MAPの「ヤング・マーブル・ジャイアンツ」は、オーディションという登竜門をかいくぐった発展途上の新人たちがこぞって出演したという、良くいえば新鮮、悪く言えば青臭いところのある舞台だった。とにかく若手の出演者が目白押しで、総出のダンスなどは圧巻だったけど、集団の中に埋没してしまった役者も多かったのはやむをえないところだろう。
そんな中で、個人的に印象深いのは、間奏曲のように挟まれるふたりのOLのエピソードである。ふたりのOLが、倉庫整理のためにひたすらダンボール箱を運ぶ、ただそれだけの話なのだが、そのOLの一方を演じた小林由梨という初めてみる女優のチャーミングで涼し気な容姿と、飄々とした存在感がひどく気になった。当日無料で配られた豆本仕様のプログラムで彼女がB-amiruという劇団に所属していることをつきとめ、インターネットでその次回公演を探し、この日、下北沢のOFFOFFシアターへと足を運ぶことになったのは、実はそんな理由だ。
劇団の人気か、それともKERA・MAPの効果か、小さなキャパシティの劇場はほとんど満員状態。開演時間を過ぎ、舞台の幕があがると、ある母子家庭のお茶の間から始まる。一家の父親が家を出ていること、ふたりのこどもたちの姉の方は上海でシャンソンの歌手になることを夢見ていることが、明らかにされる。しかし、そこで本筋にはあまり絡まないコントがいくつか挟まれる。やがて、物語は上海へと向かう船に乗る姉を弟が見送る大団円を唐突に迎える。
B-amiruは、小林の他、岩島もも、そしてイチキ游子の三人の女性たちからなる劇団で、座長のイチキは近日公開予定の映画「お正月」でメガホンもとっている才人らしい。しかしながら、今回の芝居は、絶望的なくらいに寒い出来映えだ。何よりも、致命的なのは、笑いをとるべきコントがまったく笑えないことだろう。
こういう場合、お目当ての女優を眺めて溜飲を下げるというのが定石なのだろうが、肝心の小林もどこか冴えない。TVやCMから引きが来るのも十分に頷けるくらい、なかなかの美貌の持ち主で、それはKERA・MAPの時と変わらないのだが、しかし「ヤングマーブル・ジャイアンツ」で見せたしたたかな煌きが、この日はこれっぽっちも見られないまま幕となってしまった。演出のせいなのか、それとも本人が不調なのか。ともかく残念至極である。できることなら、別の機会に、もういちど溌剌とした彼女を観てみたい気はするのだが。

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September 19, 2005

NOVELA 25th ANNIVERSARY ~ ORIGINAL MEMBERS(渋谷O-EAST,05.09.03)

novelaノヴェラのライブアクトは、過去2度観ている。最初は、〝聖域(サンクチュアリ)〟のレコ発ライブのはずで、会場は中野サンプラザだった。もう一回は、〝ブレイン・オブ・バランス〟のレコ発で、こちらは渋谷公会堂。バンドとしては全盛期から過渡期に差し掛かっていた時期で、その2つのライブの間には大きな落差があった。サンプラザのステージは、シンプルながら石柱をイメージしたかと思われる布が天井から吊り下げられ、メンバー全員が白い衣装で、さながら神殿で繰り広げられるいにしえのコンサートの趣きがあって、プログレ時代のノヴェラの集大成と呼ぶに相応しい内容だった。(後に、ライブの模様は、〝フロム・ザ・ミスティック・ワールド〟にも一部収録された)
一転して、渋谷公会堂の方は、メンバー・チェンジがあって、それと同時にプログレ色が一気に後退したアルバム〝ブレイン・オブ・バランス〟を引っさげての公演で、最後にやった〝黎明〟のみが救いといいたくなるような、往年のファンにとって寂しい内容だったと記憶している。その後は、現時点で最後のオリジナルアルバム〝ワーズ〟を出したが、ノヴェラ・ファンの関心は、ジェラルドやテルズ・シンフォニア、そしてノヴェラの前身でもあるシェアラザードの再結成へと移っていった。
そんな中で、ノヴェラの熱烈なるファンのひとりであるわたしも、長い冬眠に入らざるをえなかったわけだが、その間にリリースされた〝ボックス・セット〟が完売になるなど、彼らの人気は衰えず、往年のバンドの再結成が続く中、いつかノヴェラが再びステージに立つ機会があるのではと、個人的には思っていた。九十年代以降も再結成の噂が浮上しては消え、〝ノヴェラ伝説〟なるイベント、そしてバンド自体はここ数年、夏に開催される〝ハードロック・サミット〟に短いセットで顔を出していたようだが、ノヴェラとしてのフルレンスのステージが、バンド結成25周年を迎えた今年、ついに実現したというわけだ。
メンバーは、秋田鋭次郎=エイジロー(ds)、高橋良郎=ヨシロー(b)、平山照継=テル(g)、永川敏郎=トシ(kb)、五十嵐久勝=アンジー(v)の5人で、これは完全に第1期のメンバー構成となっている。したがって、演奏曲も〝魅惑劇〟〝星降る夜のおとぎ話〟を中心に、〝パラダイス・ロスト〟と〝聖域〟から若干と、初期のノヴェラの再現となった。
アンジーのハイトーン・ボイスに、テルのカラフルなギター、トシのテクニカルなキーボードは、全盛期そのままと言ってよく、プログレハードというスタイルを切り拓いたノヴェラの魅力は、最初の〝イリュージョン〟から全開。アンジーのMCを挟みながら、前面に出るハードロック色に円熟味が加わった演奏は、年齢層の高い観客たちを大いに沸かせていた。
ただし、わがままを承知で言わせてもらうならば、個人的には〝パラダイス・ロスト〟〝聖域〟といった優れたプログレ・アルバムの曲をもっと聴きたかった、という不満が残らなかったわけではない。次の機会があるなら、バンドとしてもピークを迎えていた時代の再演も望みたいところで、笹井りゅうじ(b)、西田竜一(ds)らを交えたステージの実現を切に願っている。

(当日セットリスト)
1)イリュージョン2)名もなき夜のために3)奇蹟 (MC) 4)レティシア 5)ヒドラ伯爵の館 (MC) 6)リトルドリーマー 7)キーボードトリオ (ドラムソロ) 8)廃墟(MC) 9)魅惑劇(MC) 10)メタマティックレディダンス11)ナイトメア12)時の崖
(アンコール①)13)ロマンスプロムナード (アンコール②)14)メタルファンタジー15)フェアウェル

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ハイキング フォー ヒューマン ライフ●damim第5回公演 (中野ザ・ポケット,05.08.27)

picnicdamim(ダミーム)は、TVなどでお馴染みの俳優宇梶剛士が主宰するコアな芝居を見せてくれる劇団(ユニット)との触れ込み。ルーツは、美輪明宏や渡辺えりと宇梶本人は語っているようだ。今回の第5回公演は、なんと4年ぶりらしく、わたしは初見。NYLON100℃からの村岡や阿佐ヶ谷スパイダースの中山といった役者たちの名に惹かれて、中野に足を運んでみる気になった。
冒頭に、ふたりの少年が楽しそうにキャッチボールをしている短い場面があって暗転、そこから物語が始まる。富士の樹海の奥と思われる岩場に、若い女性と中年の男がいる。彼女ミヤコ(村岡希美)は友人を捜しにやってきたこの樹海で道に迷ってしまった。猟銃を抱えたハンターの格好をしたオジサン(荒谷清水)は、しきりに具合の悪そうなミヤコを気遣う。やがて、丁寧に道を教わったミヤコは出発する。しかし、入れ替わりに現れた十代とおぼしきカップルの男に、先ほどまでとは豹変し、激しい調子で猟銃を突きつけるオジサン。カップルは心中するためにこの樹海へやってきたのだった。
カップルがほうほうの体で逃げ出すと、今度は別のカップル、コウサク(友寄有司)とセツコ(信川清順)がやってくる。彼らは、友人を捜しに、この樹海へやってきたという。行方の判らない友人は、父親を殺したと思い込んでいるという。彼らやミヤコが探しているのは、やがて登場するひとりの青年シンタロウ(中山祐一朗)で、彼もまたあるものを探して、この樹海へ迷い込んだのだった。それは、彼が大切にしていた愛犬ロックだった。男は、シンタロウを自殺志願者だと決めつけ、激しい調子で責めながら、猟銃を向ける。
岩の間を飛び回る不思議な少女(藤谷文子)と彼女に寄り添う記憶をなくした男(宇梶剛士)、最愛の娘を失い夫婦関係崩壊状態となっている男女と、登場人物も多く、舞台上を出たり、入ったりと、めまぐるしい。しかし、物語のキーパースンは、脇役ではありながらオジサンといわれる男で、これを岩谷清水が迫真の演技で、自殺志願の若者を震え上がらせる狂気すれすれのキャラクターを造形している。彼の存在感が、この芝居全体に緊張感をもたらしているといっても過言ではないだろう。
(以下ネタばれあり)さらに、記憶をなくした男が実は犬で、彼が執着していた不可解な代物が、かつて飼い主と遊んだボールがボロボロになったものだということが判るくだりは、巧妙な伏線もあって、感動すら憶えた。全体に不条理劇の様相を呈している芝居だが、構造的には非常に理性的に、しかも上手に作られている、と感心した次第。
物語中盤に、にわかに前面に出てくる暗闇を具体化したイメージもなかなか強烈だ。おそらくは登場人物の誰かの妄想か悪夢を具象化したものなのだろうが、このダークファンタジーっぽい展開が、うすっぺらな人間劇に終わることから救っている。唐突とも思える展開だが、実に演劇的な面白さが滲み出た脚本だと思った。

なお、会場の中野ザ・ポケットは住宅街の中という静かなロケーションもいいし(近隣との関係を保つなどの苦労はあるだろうが)、舞台、客席の広さもなかなか小劇場の芝居に向いた、いい小屋だとは思うのだが、客席の床を歩くと、開演中に靴音がやたら響くのには閉口させられた。開演後に遅れて入場してくる客も客だが、吸音性の高い敷物をしくか、床の構造を変えるなどの工夫をぜひお願いしたい。

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September 18, 2005

トーキョーあたり●劇団健康VOL.15 (下北沢本多劇場,05.08.26)

kenkou芝居の中でのスライドや映像を用いる仕掛けには、正直違和感を覚えると思ってきた。第三舞台も全盛期にタイトルバックで使っていたし、NYLON100℃でもお馴染みの手法だが、これがどうにも馴染めない。先般は、シベリア少女鉄道で酷い例を見せられたばかりだ。しかし、こいつは笑えた。劇団健康の『トーキョーあたり』のプロローグである。ケラその人が自ら登場する短篇映画で、宮藤官九郎や三谷幸喜ら人気作家へのコンプレックスや、自作に対する厳しい世評を、見事にお笑いに料理している。なんとその後、本編中にも、ケラ本人が登場して、作中人物ときわどいやりとりをするという徹底ぶりである。
さて、その12年ぶりの復活となった劇団健康だが、今年のケラはまるで演劇の神様に憑かれたように芝居に取り組んでいる。NYLON100℃の本公演があって、二つのKERA・MAPがそれに続き、今度は健康の復活である。NYLON100℃を健康の発展型と見るファンは多いはずで、かくいうわたしもそんな一人だった。しかし、この『トーキョーあたり』を観ると、なるほどケラが健康を復活させたくなった理由もぼんやりと判ってくるような気がする。
舞台上では、締め切りに追い立てられる脚本家と監督が、ふたりで映画のストーリーを練っていくというシチュエーションをもとに、ふたつの物語が交互に進行する。ひとつは、嫁に行った娘を東京に訪ねる老夫婦の物語。そして、もうひとつは、何でもやる課で定年まで勤められた模範的な公務員が、ガンの宣告を受ける。やがて、ふたつの物語は交錯し、役者が入れ替わったりしながら、息子夫婦殺しや無差別テロといったとんでもない方向へと転がっていく。
小津安二郎の「東京物語」と黒澤明の「生きる」を下敷きにしているが、正直、原典の印象は薄い。というのも、ナンセンスやブラックなコメディ感覚で綴られていくコント集のアクの強さが前面に出ているからだ。そこには最近のNYLON100℃では洗練という名のもとに薄まってしまった感のある強烈な毒がある。とりわけ三宅弘城演じる女性や、手塚とおるの世界征服を企む公務員の存在感は強烈で、かつ魅力的といっていいだろう。ケラが健康を復活させた理由も、一種の原点回帰願望にあったのではないか。役者でいえば、健康解散後OLをやっていたという新村量子の異形ぶりも健在で、それ以外の犬山イヌコ、大堀こういち、手塚とおる、藤田秀世、峯村リエ、みのすけ、横町慶子もいいチームワークを見せてくれたと思う。とにかく軽やかに暴走していく役者たちの姿は、見ていて本当に楽しい。
しかし、コントのコラージュとでも呼びたくなるようなハチャメチャな展開の中から、さりげなく〝家族の崩壊〟というテーマを浮かび上がらせるあたりは、さすがにケラ。カーテンコールで、いい歳をしたおとなたちがやる事じゃない、と自嘲したケラだが、自宅に帰ってプログラムに掲載されたNYLON100℃の次回公演を見たら、な、なんとかつて劇団健康が上演した「カラフルメリイでオハヨ」が挙がっているではないか!健康のナンセンス路線を、NYLON100℃という器にどう盛ってみせるのだろうか、想像しただけでドキドキする取り合わせだ。

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September 03, 2005

ミステリで遊ぶ「モーダルな事象」の魅力

modaru人間にも饒舌なタイプと寡黙なタイプがあるように、小説にも饒舌な小説と寡黙な小説があるんじゃなかろうか。だとすると、奥泉光の「モーダルな事象(桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活)」(文藝春秋)は、明らかに前者だろう。とにかく、主要な登場人物たちは、ひっきりなしに喋っているか、心の中で呟いている。読者としては、話好きの友人と向き合っているような、なんとも愉快な気分にさせられる。そんな小説だ。
主人公といえる登場人物は3人(2組)いる。ひとりは、サブタイトルにもなっている桑潟幸一大学助教授なる人物で(通称桑幸)、太宰を専門とする日本文学の研究者である。その世界では大した業績のあげていない彼だが、新しい文学事典の執筆に拘わったことから、太宰の親友であったと伝えられる他はほとんど知られざる童話作家の未発表原稿の発見者になってほしいと編集者から頼み込まれる。軽い気持ちで引き受け、雑誌に紹介の記事を寄稿するが、童話作家の遺稿は本にまとめられるや、たちまちのうちに大ベストセラーを記録し、紹介者の桑幸は俄かに時の人となる。
ところが、担当の編集者が殺され、その首が瀬戸内海に浮かぶ小島に流れ着くという事件が持ち上がる。その島は、童話作家の生まれ故郷の島のすぐ近くに位置していた。ジャズ・シンガーの北川アキは、桑幸こそが編集者を亡き者にした殺人犯ではないかと疑っていた。ライターの仕事もしている彼女は編集者から依頼を受け桑幸へインタビューした経験があり、事件を新聞で読み、ピンと来たのだった。アキは、かくして別れた亭主の諸橋倫敦とともに、二人三脚でこの事件を追い始める。
物語は、桑幸助教授の側と、アキ&諸橋の元夫婦刑事(実際には素人探偵なのだが)の二組が、双方から事件の真相に迫っていく。元夫婦刑事が名探偵顔負けの推理と捜査で事件の真相へと迫っていくのに対し、童話作家の生まれ故郷である小島を訪ねた桑幸は、調査を重ねれば重ねるだけ、事件の深みへの嵌まっていってしまう。
製薬会社の不気味な研究、怪しげな新興宗教、アトランティスのコインなど、怪しいガジェットが登場するあたり、理性的な推理小説というよりも、SFや怪奇の要素が横溢する伝奇小説の色合いが強いような印象があるが、この作者にして珍しく〝メタの構造〟とも無縁で、松本清張ばりのアリバイトリックが使われたりするところに意表を突かれる。そのあたりは、〝本格ミステリ・マスターズ〟という叢書を意識しての小説づくりなのだろうか?
そういう意味で、意外性も十分に盛り込まれており、読み応えのあるミステリに仕上がってはいるが、合理的な解決やフェアプレイはあまり前面に出てこない。むしろ、松本清張や横溝正史というミステリのスタイルを借用しながら、独自の饒舌な文学を展開したものというのがこの「モダールな事象」の正体ではないかと察せられるが、どうだろうか。
やや大げさな言い方やもしれぬが、奥泉光版「虚無への供物」として、わたしはこの作品を支持したい。

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