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July 30, 2005

水平線ホテル●劇団M.O.P.第40回公演 (新宿紀伊国屋サザンシアター, 05.07.26)

suiheisen「水平線ホテル」、なかなかいいタイトルだと思う。善と悪、過去と未来、正気と狂気、世の中のすべてには境界線がある。そして、このドラマの中にも。すでに40回公演を数えるこの劇団だが、観るのは今回が初めて。評判をききつけ、台風7号が関東地方に刻々と接近する晩、豪雨の中を紀伊国屋サザンシアターへと向かった。
地中海の小さな島に建ったホテルが舞台である。二次大戦も末期にさしかかり、同盟国側のイタリアの玄関口としての役割を果たしていた。女主人のアンナ(キムラ緑子)が仕切るこの古いホテルは、さまざまな客でに賑わっている。アンナに思いを寄せる自称作家のレイ(小市慢太郎)、やくざ者で酔っ払いのルイス(三上市朗)、どこか怪しげな紳士のガスマン(岡森諦)、そして家族連れで旅行に出発しようとしているノーベル賞受賞の科学者とその家族、そしてオペラ座にも出演したベテラン歌手サンドラ(林英世)とそのマネージャーで夫のエド(酒井高陽)などなど。
そんな中に乗り込んできたのが、秘密警察のオラーノ(奥田達士)と親衛隊だった。匿名の通報があり、このホテルには英国のスパイが潜んでいるという。彼らはホテルを封鎖し、滞在客全員の尋問を開始する。そこから出ようとする者は、すべて射殺。そんな緊迫した状況下で、取り調べは進められていき、非協力的な態度からリンチ同然の扱いを受けたルイとレイは、傷だらけになっていく。
しかし、そんな中、科学者のジュルミ一家を訪ねてきたエリオ(小池貴史)という青年が、秘密警察に密告するという事態が持ち上がる。科学者のロベルト・ジェルミ(倉田秀人)は、敵国のアメリカへの亡命を計画していると。ジェルミ教授は原子爆弾がヒトラーの手に渡ることを危惧し、それを阻止するために敵国へ渡ることを望んでいたのだ。取り調べが激しくなる中、脱出のための秘密通路があることが明らかになり、一同は秘密警察の目を欺いて、脱出作戦を敢行することに。
ウェルメイド・プレイと言っていいだろう。演劇的なケレン味はほとんどないのだが、役者たちの芝居も達者だし、演出も堅実という印象だ。推理劇であるということへの期待にも、一定の水準でキチン応えてくれている。
ミステリとしての仕掛けも、小味なところはあるが、なかなか巧妙であり、観終わったあとの印象は爽快だ。中身はまったく違うのだが、映画「スティング」を彷彿とさせるといえば、方向性は想像いただけるだだろうか。思い返してみれば、綱渡り同然のトリック(観客を欺くための仕掛け)なのだが、役者ひとりひとりの力量と絶妙のチームワークで、見事に騙された。なんとも素晴らしい推理劇を見せてもらった。
ただ、幕切れのラジオ放送の場面は、もう少し別の演出があってもいのではないかと思った。あれだと、単に伏線のひとつが浮かび上がるだけの効果しか上がっていないように思える。あのアイデアを持ってくるなら、観客に衝撃を伝える何かがほしかった。

(以下ネタばれ)
秘密通路からの脱出もあと4人となった時、折悪しくオラーノと秘密警察の隊長が戻ってくる。待ってましたとばかりに、密告したい旨を名乗り出て、交換条件として自分と妻だけを脱出させてほしいとオラーノに懇願するエド。そもそも英国のスパイが紛れ込んでいるという密告は、オラーノをこのホテルにおびき出そうとするアンナの策略だったことも明らかにされる。アンナの亡夫は新聞記者だったが、ムッソリーニの悪事をあばこうとして、秘密警察に殺されていた。その時、夫を死に追いやった張本人が、オラーノだったのだ。
真相を知ったオラーノは、ホテルの従業員と宿泊客全員を射殺した末に、ホテルを爆破し、今回の件を闇に葬ろうとするが、アンナがふたりの隙をついて強力な火薬を用いた爆弾を手にし、ふたりを巻き添えに爆死すると脅かす。瞬間、エドは外部への連絡用電話に飛びつき、今から飛び出す人間を射殺しないように、外で見張っている者へ伝える。それと同時に、表へ飛び出すオラーノと秘密警察の隊長。しかし、彼らに浴びせられる銃弾の音が鳴り響く。
エドの寝返り以降は、アンナたちが考え出したオラーノたちを陥れる罠だった。最後のエドの電話もインチキで、それをチャンスとばかりに飛び出したオラーノたちは、味方に射殺されてしまった。アンナたちの策略は見事に成功し、従業員と宿泊客たちは全員無事に脱出を果たす。
その数年後、同じホテルで。たまたま滞在していたルイスとアンナが話をしているところに、ラジオからニュースが聞こえてくる。その内容は、広島に原子爆弾が投下され、町が一瞬にして消えたというものだった。

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July 27, 2005

ゆらゆら帝国 LIVE2005 (CLUB CITTA'川崎, 05.07.22)

yurayuraゆらゆら帝国=四人囃子説、というのはあまりに奇抜だろうか?いや、わたしは、そうは思わない。彼らのどこか懐かしく、サイケでファジーな心地よさは、ルーツをつきつめていくと、どうしても6~70年代のあの熱い日本ロックの時代に行き着く。それも、〝一触即発〟の頃の四人囃子にピンポイントである。最初期の四人囃子は、ピンクフロイドにつながるサイケデリックなテイストと、控えめながら不思議な存在感を主張する森園勝敏のギターとボーカルが売り物だったわけだが、ゆらゆら帝国は当時の彼らのサウンドをストレートに彷彿とさせる。ま、ゆらゆら帝国をプログレだなどと主張するつもりは毛頭ないけれども。
さて、最新アルバム〝Sweet spot〟をひっさげてのツアーを敢行中のゆらゆら帝国であるが、わたしは不覚にも5月の渋谷AXを逃している。というわけで、万難を排してのクラブ・チッタ川崎である。スタンディングで満員状態という熱気溢れる会場に入ると、10分遅れくらいで客電が落ち、暗いステージに3人が登場する。
最初に〝どうも〟、最後に〝今日はどうも〟、とたったふたことだけの素っ気無いMCだが、それでいてステージングに物足りなさをまったくおぼえない。3人のテンションはのっけから上がりっぱなしで、途中チューニングのための短いインターバルを除けば、ほとんどぶっ通しの演奏で、まさに会場はゆらゆら帝国漬けの状態である。
バンドは3ピースだが、亀川千代(B.)と柴田一郎(Dr.)の磐石のリズム隊をバックに、坂本慎太郎(Vo.&G.)の歌いまくるギターと、さたに歌いまくるボーカルが、非常に密度の高い演奏を繰り広げる。それだけ濃い演奏を続けられると、逆に観客の緊張感は途切れてしまったりするものだが、そこは絶妙な選曲の良さもあってのことだろう。ステージの上も、観客席も、ライブが後半に突入するにつれて、熱気が高まっていく。
今回のアルバムは、1曲1曲を眺めると、どちらかといえば地味目な印象が強いが、それをメインにしながらも、「冷たいギフト」や「グレープフルーツちょうだい」などの人気曲を要所に挟み、観客をのせていく。会場がもっとも盛り上がったのは、「ラメのパンタロン」で、これは中盤のクライマックスだった。終盤は、坂本のギターのインプロなどもあって、さらに盛り上がった。2時間、古き良き日本ロックの時代へ心地よくタイムスリップさせてもらった。

(セットリスト)
1)頭炭酸 2)急所 3)貫通前 4)タコ物語 5)冷たいギフト 6)侵入 7)男は不安定 8)頭異常なし 9)ラメのパンタロン 10)ゆらゆら帝国で考え中 11)誰だっけ? 12)ロボットでした 13)ソフトに死んでいる 14)いたずら小僧 15)グレープフルーツちょうだい 16)スイートスポット 17)EVIL CAR

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July 24, 2005

LAST SHOW ラストショウ●パルコ・プロデュース公演(渋谷PARCO劇場, 05.07.21)

last_show阿佐ヶ谷スパイダースの「悪魔の唄」、AGAPE storeの「仮装敵国」の第一話に続く、今年3本目の長塚圭史の芝居である。なかなか骨太いストーリーテリングを見せる「悪魔の唄」(作、演出、出演)と、ショートコントのような「仮装敵国」のエピソード(作)と、サンプル数は少ないのだが、それらに共通するのは、一種のキャンプユーモアというか、悪趣味な感覚である。これは、持ち味というよりは、味付け程度のものなのかもしれないのだが。
元アイドルの美弥子(永作博美)と結婚し、ローカルTV局で働く石川琢哉(北村有起哉)は、初めてディレクターとしての仕事を手にし、カメラマンの中島(中山祐一朗)とコンビを組んでいた。ところが、石川の意図する心温まるドキュメントという方向性に異を唱える中島は、取材対象である拾ってきた動物に愛情を注ぐ慈善家の渡部トオル(古田新太)を怒らせてしまう。企画がフイになるばかりか、会社を首になるという窮地に立たされた石川だったが、「渡部には絶対に何か裏がある」という中島の焚きつけに乗り、美弥子のファンだという渡部を自宅に招き、取材のカメラを廻すことに。
その前日の晩、石川が近所に出た隙に、実父の勝哉(風間杜夫)が久方ぶりに琢哉を訪ねてくる。どこか冷たく、ときに不可解な言動をみせる父親の勝哉を、帰宅した琢哉は持ち前の善良さで、暖かく接する。しかし、台所に立った美弥子に対し、突然、暴力をふるう勝哉。彼女の体に新しい命が宿っていることを知らされたばかりだった。翌朝、息子を監禁した勝哉は、琢哉の命と引き替えに、義理の娘である美弥子にとんでもない要求をつきつける。そこに、慈善家の渡部を連れて、カメラマンの中島がやってくる。
長塚について語られているものを見ると、家族というキーワードがよく目にとまるが、この「LASTSHOW」の俎上に乗せられているのは、非常に捩れた親子の関係だ。子を子とも思わない父親、父親は自らのエゴを暴力という手段で子どもにつきつける。もうここには、通常の感覚で共感できる人間関係は存在しない。
一方、慈善家である渡部の愛も尋常なものとはいえない。渡部は動物愛護の本でベストセラーを出した人物として登場するが、人間のモラルを涼しい顔で越える歪さがあることを、やがて観客は知らされる。彼の異形な存在感は、世間ではホラーの世界でしか成立しえないものといっていいだろう。
このふたりの登場人物は、長塚のキャンプ趣味を色濃く漂わせており、そのふたりの黒い思惑が、絡み合いながら、意表をついた展開を遂げていく後半は、ある意味、長塚の本領が発揮されている。わたし自身、このふたりの人物には、正直不快な気分を禁じえなかったが、ことの顛末を食い入るように見つめてしまった。
その原因のひとつが、鬼畜のような役柄を鬼気迫る芝居で演じてみせる風間杜夫の演技である。古田新太や若手の役者たちも(永作も含めて)なかなかいい芝居を見せてくれる中で、やはり風間の本気の演技は、ひときわ凄みのようなものが感じられて怖かった。さりげない台詞のひとことや、体の動きで、あそこまで恐怖というものを具現できることに、心から驚かされた。
ただ、猫のホテルから客演した市川しんぺーの役どころには、驚きを越えて、愕然とするものがあった。ああいう展開をあそこにもってこないと、加速する狂気にブレーキがかけられないというのは理解できるのだが。エンディングで石川が父親にマヨネーズをかけるシーンとともに、もうひと捻りが必要だったような気がするが、どうか。

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July 23, 2005

迷宮の女 (2003)

flidedalesかつてビル・S・バリンジャーというアメリカのミステリ作家がいて、一見無関係なふたつの物語を並行して語っていき、それをラストで鮮やかに交叉させるという独特の小説のスタイルを得意としていた。「歯と爪」や「煙で描いた肖像画」などがその代表作だが、「迷宮の女」の劇場用プログラムに寄せるエッセイの中で、戸梶圭太はこの映画はそのバリンジャーを彷彿させると書いている。なるほど、「迷宮の女」は、ひとつの事件を、犯人逮捕までと犯人逮捕後のふたつの物語を交互に語っていく。
パリの市中を騒がせている連続殺人事件があった。犯人は被害者にダイスで勝負を挑み、負けた相手を殺した挙句、死体を持ち帰るということを繰り返していた。電車に乗りあわせた盲人は、犯人は複数で、互いに言い争いをしていたと証言した。パリ警察のレイ(エドゥアール・モントゥート)は、心理捜査官のマチアス(フレデリック・ディーファンタール)にプロファイルを要請する。犯人の思念にシンクロしながら、次第に犯人を追いつめていくマチアスの心に浮かぶのは、迷宮とミノタウロスの伝説だった。やがて、マチアスは地下の下水道に、おびただしい死体を発見する。これが一方のお話。
もう一方は、すでに犯人逮捕後の話だ。犯人のクロード(シルビー・テスチュ)は、精神鑑定のために治療施設で診察を受けている。彼女を担当することになった精神科医のブレナック(ランベール・ウィルソン)は、診察の最中に彼女から暴行を受けながら、クロードには多重人格の可能性があることを見出す。しかし、人格の統合は殺人に等しいと、統合に反対する。隙を見てクロードは治療施設を脱出するが、ダイスの目が帰れと告げたといって、施設へと戻ってきてしまう。やがて、院長のカール(ミシェル・デュシューソワ)の判断で、催眠術により人格の分裂が起きた子ども時代の誕生日に戻る試みが行われることに。
映画という表現方法を最大限に活かした作品である。この方法ならば、ぎりぎりフェアプレーといえるだろう。ただし、この複数の人格の描き方は、映画という世界においてのみ成立する仕掛けではあるとともに、一発勝負のようなところがあり、幾度も繰り返しはきかない。製作年が同じだし、偶然だと思うものの、ジェームズ・マンゴールド監督の「アイデンティティー」との一部類似点がわたしにはちょっと気になった。
印象的なのは、犯人役のシルビー・テスチュの中性的な存在感で、彼女の起用によってルネ・マンゾール監督の仕掛けた罠は、さらに効果をあげている。(ただし、終盤に一部フェアじゃない場面あり)またバリンジャー的な平行した物語構成も、観客に終始心地よい緊張感を与えているばかりでなく、それぞれのクライマックスで、見事なクロスを見せる。小さな事実の不整合が、物語の収束にしたがって一気に整合へと向かう展開も、なかなかの効果を上げていると思う。ただ、強いていえば、犯人のこども時代のトラウマがありきたりなのと、成人後の犯行がフィクション的で、いかにも頭で考えたつくりものめいているところが難といえば難。 [★★★]

(以下ネタばれ)
犯人のクロードも、心理捜査官のマチアスも、精神科医のブレナックは、実は同一人物であった。つまり、3人ともが、ひとりの多重人格者に潜む別々の人格だったのだ。映画では、それぞれの人格を別の役者が演じ、観客を欺くという手法がとられている。
クロードは、少年時代に母親からの虐待で多重人格者となり、妄想の中で親しんだミノタウルスの物語に従って、生贄を求めて毎年犯罪を繰り返していたのだ。

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July 19, 2005

Bondagefruit:Bondagefruit3〝Receit〟再発記念ライブ (初台TheDoors, 05.07.15)

〝隠者の森〟というバンド名を、てっきりカルメン・マキの新しいユニット名だと思っていた。しかし、当日ステージに立ったのは、日頃より彼女が勤しんでいるソロ活動の際にバックをつとめているギターの桜井芳樹とベースの松永孝義に、太田恵資のバイオリンが加わった編成で、曲も「人魚」、「かもめ」というお馴染みのラインナップである。
この日は、ゲストの扱いということもあって、全体で1時間足らずの演奏だったが、バックが3人になったことによって、歌とバッキングというよりはバンド演奏に近いまとまりが出たように思う。バイオリンが加わったことで音がマイルドになったし、奥行きもぐっと広がった感じがする。5月に舞浜のクラブ・イクスピアリで観た彼女のソロ・ライブと比較して、この日はバンドとしての存在感と、それにともなって彼女の歌にも色彩感と華やかさが増したように思えた。

bondageさて、メインアクトのBondage fruitだけれど、彼らのCDはプログレ・ファンとして2ndまではきっちりと追いかけていた。その後、やや遠のいていたものの、マッツ&モルガンの来日のときに、オープニング・アクトで登場した彼らの火を吹くような演奏を聴いて、正直ぶっ飛んだ。エキゾチックな風味に加えて、シンフォニックな展開まであって、とにかくその勢いと華のある演奏に圧倒された。
その後、彼らのことが気にはなりながらなかなかタイミングが合わず、ライブ会場には行けなかったが、サードアルバムが再発記念となったこの日、久しぶりに彼らの演奏を生で聴くことができた。メンバーは、鬼怒無月(g)、勝井祐二(vl)、高良久美子(vib)、大坪寛彦(b)、岡部洋一(per)の5人で、主にリードは最初のふたりがとる。
CDや過去1度だけ見たライブから受けるBondagefruitの印象は、個人的にはエスニック風味のジャズ・ロックなのだが、今回の演奏は非常にミニマル色を強く感じさせるものだった。もちろん、要所要所を締める鬼怒のギターは非常にソリッドにリズムを刻むし、勝井のバイオリンも流麗なメロディを奏でるのだけれど、全体に混沌としたイメージが支配し、ジャズロックとしてのスリリングな演奏はイントロとエンディングに絞られていたような気がする。
再発となったサードアルバムはライブ・レコーディングで、その際、作曲者でありながら、鬼怒が岡部のドラムスに騙され、フライングをしてしまったエピソードや、初期の曲の楽譜には意味不明なイラストが描かれていたと語る鬼怒のMCも愉快だった。アンコールの2曲目には、なんとカルメン・マキが登場し、〝両者の音楽性があまりにかけはなれている〟と観客を笑わせたあとで、bondagefruitを従え、「時には母のない子のように」を、ジャジーに歌い上げた。
プログレ・ファンとしては、やや退屈な場面もあったが、疲れて帰宅すると、また彼らの演奏が聴きたくなり、あわてて過去のアルバムをひっくり返した。彼らのライブには、機会をみてまた足を運ぶことになるだろう。

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July 18, 2005

10cc - Graham Gouldman and friends (渋谷duo MUSIC EXCHANGE, 05.07.14)

10cc90年代に全盛期のオリジナルメンバーによるレコーディングが行われ、その後2度の来日公演も行っている10CCだが、正直、もうその頃には、彼らにはあまり興味をもてなくなっていた。10CCの良い時代は、73年のレコードデビューから、75年の「オリジナル・サウンドトラック」、76年の「びっくり電話」、そして、ゴドレー&クレームが抜けた77年の「愛ゆえに」あたりまでがぎりぎりで、いくら懐かしい顔ぶれが集まっても、往年の輝きを取り戻すことはありえない、という冷静な思いがあったからだ。
彼らの来日公演は、77年秋のツアーで中野サンプラザでの演奏に立ち会っている。この時も全盛期とはいえず、来日メンバーは、エリック・スチュワートとグラハム・グールドマンで、「イン・コンサート」というライブアルバムとほぼ同じ演奏内容だった。まぁ、悪い演奏ではなかった、とは記憶しているが。
というわけで、今回の来日も、集金ツアー、という陰口がまっさきに浮かんだ。おまけに、エリックは抜けて、グラハムと彼の友人たちという構成とくれば、10CCとは名ばかりの来日だなぁ、と思っても仕方のないところだと思う。しかし、虫の知らせではないのだが、来日のニュースとともに妙に懐かしい気分に襲われて、チケットを即手に入れてしまった。しかして、当日の演奏は、そういうわたしの(つまりオールド・ファンの)期待に十分応えてくれる内容だったのだ。
まず良かったのが、その選曲だ。本稿最後のセットリストをご覧頂けると判るように、かつてチャートをにぎわせた彼らのスマッシュ・ヒットがずらりと並んでいる。それも、全盛期の作品が中心で、ライブでは珍しいナンバーもかなりの数交じっている。
また、演奏のクオリティも悪くない。オリジナル・メンバーはグールドマンひとりだが、サポートするのはいずれも腕利きのミュージシャンとみた。とりわけ、パーカッション、ギター、そしてボーカルまでも担当する人物は八面六臂の活躍で、出だしが鈍いという欠点はあるものの、エリックのパートを歌わせると、声はシャープだし、歌も上手い。
さらに、バンドとしてのチームワークもなかなかのもので、楽器のアンサンブルもまずまず。とりわけ、10CCのひとつの売りともいうべきコーラスワークでは、オリジナル10CCもかくや、というハーモニーを聞かせ、観客を唸らせた。
グラハム・グールドマンがフロントということもあって、彼がソングライターとして鳴らした60年代の作品をアコースティックでやってくれたのも嬉しかった。ホリーズやハーマンズハーミッツ、ヤードバーズのヒット曲が、グールドマンの歌声で甦ったのは、10CCの曲を聴けたのとはまた違った懐かしさがあった。(ちなみに、福岡、大阪、名古屋では、この4曲はやらなかった模様)
時間にすると、1時間半弱。時間的にやや物足りなさも残ったが、10CC、そしてグラハム・グールドマンの魅力を堪能し、再発見した一夜だった。

(セットリスト)※7~10がグールドマンのセルフカバー
1. Wall Street Shuffle 2. The Things We Do For Love 3. Good Morning Judge 4. I'm Mandy Fly Me 5. Life Is A Minestrone 6. Art For Art's Sake 7. Bus Stop  8. No Milk Today  9. Look Through Away Window  10. For Your Love  11. Silly Love 12. Doona 13. The Dean & I 14. From Rochdale To Ocho Rios 15. I'm Not (Actually) In Love 16. Dreadlock Holiday (encore )17. Rubber Bullets

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事件●THE SHAMPOO HAT #18 (下北沢ザ・スズナリ, 05.07.02.マチネ)

shampoo1ここのところ、この劇団の俳優2人が客演する芝居に立て続けに行き逢い、その不思議な存在感に興味がわいた。KERA・MAPの〝砂の上の植物群〟に出ていた赤堀雅秋と、劇団、本谷有希子の「乱暴と待機」 の多門優である。いずれも、個性的な役者たちがそれぞれ熱演する中でも、アクの強い演技で、ひときわ異彩を放っておりました。
というわけで足の向いたTHE SHAMPOO HATの「事件」である。ミステリ好きは、「事件」と聞けば、ベストセラーとなった大岡昇平の同題の小説(野村芳太郎監督で映画にもなった)を思い起こすであろうけれども、大岡の小説が社会派であったとすれば、こちらはサイコ・スリラー仕立て。降り止まない雨の物語である。
その町では、中年女性ばかりを狙った連続通り魔殺人が人々を震憾させていた。今日もまたひとり、買い物帰りの主婦が犠牲となり、高橋(野中孝光)と石井(日比大介)の刑事コンビは、被害者の息子一美(多門優)と娘の宏美(滝沢恵)に、事件の状況を説明していた。手がかりと思われるものは、現場に残された数本のねじ。一向に解決の見通しがたたない警察に業をにやし、刑事たちにキレまくる一美。
一方、町の病院には、頭の怪我で入院している金物屋を経営する小峰春彦(黒田大輔)がいた。彼は、こどもの頃から残虐性と妄想癖があり、兄の夏彦(赤堀雅秋)は彼の行く末を心配し、実家の金物屋を彼に継がせ、自分はスーパーの店員としての毎日を送っていた。
やがて、降り続く雨の中で再び事件が起き、今度はこともあろう刑事のひとりも犠牲になってしまう。
ドラマの中心にあるのは、妄想である。春彦は、異様なまでの鯨への憧憬を心の中で膨らましている。また、汚いアパートの一室で、パンツ一丁と浮き袋という不快な姿で、この降り止まない雨がやがて第二のノアの大洪水に繋がると確信している池田翼(福田暢秀)がいる。そういった市井の狂気に対して、なすすべもない警察や被害者、そして犯人の兄である夏彦。降り止まない雨の中、彼らの焦燥は次第に水かさを増し、やがて決壊する。
下世話なやりとりの中で、深く静かにドラマを進行させていくあたりの手法は、さすがに手馴れたものがあり、舞台美術も担当するという福田暢秀の五分割の舞台装置とともに見応えがある。ただし、そもそも犯人は最初から見当がついてしまうので、ミステリとしての興味が希薄なのは惜しまれるところだ。この芝居の劇場に冗長という評価が多かったように見受けるが、原因はそのあたりにあるに違いない。
役者たちは、ひとりひとりが達者で、ほかにも医師の青柳(小玉貴志)など、わけのわからない狂言回しで観客を煙に巻き、面白い効果をあげていた。もちろん、赤堀と多門も、期待通りの熱演だった。

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July 17, 2005

アンブレイカブル (2000)

unbureakablebest1出世作の次の作品というのは、とかくその真価を改めて問われることになりがちなものだが、「シックス・センス」で世界的にその名をあげたM・ナイト・シャルマン監督は、この『アンブレイカブル』でずいぶんと思い切った企画にチャレンジしたものだと感心する。コミックの世界を舞台に、まさにあっと言わせるアクロバティック的な仕掛けで、果敢に観客へ挑んでみせる。
生まれながらにして体が弱く、先天的な骨の異常で、母親の胎内から出た時には、すでに両手両足を骨折していた男イライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクスン)。常人並みの生活を送ることが出来ない彼は、こどもの時に集め始めたコミックの世界にとり憑かれている。そんな彼は、ひとりの人物に関心を抱き、つきまとう。その人物デイヴィッド・ダン(ブルース・ウィルス)は、生まれつき頑強で、病気になったり、怪我をしたことが殆どない。彼を除いた乗客全員が死亡した大規模な列車事故でも、かすり傷ひとつ負わなかった。
そんな彼には、不思議な能力があった。警備の仕事をしている彼には、邪悪な意思の持ち主を直感的に見抜くことができるのだった。そんなデイヴィッドを、イライジャは特別な存在だと言う。彼がいうには、世の中には、例えば、陰と陽、善と悪のような対極的な存在があり、イライジャのような弱者に対し、アンブレイカブル(死なない)存在として正義の味方のような使命が与えられているとデイヴィッドに説く。
そんなある日、イライジャの言うデイヴィッドの役割が現実のものとなる事件が起きる。仕事の最中に、デイヴィッドは強力な直感に襲われ、ひとりの不審人物のあとをつける。その男は、ある一家に侵入し、家族に暴力を加え、監禁していたのだ。デイヴィッドは、とっくみあいの末に犯人を倒し、一家を救出した。デイヴィッドは事件後、イライジャのもとを訪れるが、そこで恐るべき事実を知らされる。
冒頭に、コミックをめぐる意味ありげなイントロダクションがある。それが実は伏線となっていくのだが、それにしてもシャマラン監督は大胆不敵なアイデアを実行に移したものだと思う。コミックと現実の境界線をテーマにしたその仕掛けは、危ういところながらギリギリで成立しており、それは評価できる、というのがわたしの結論。
ただし、丁寧な伏線が張られながら、ややもすると観客がおいてきぼりにされそうになる演出は、もうひと工夫必要だったのではないかという気がする。わたし自身、最初にこの映画を観終えたときの印象は、〝?〟だった。しばらくたって、それが〝なるほど〟に変わったが、それはある程度、映画の説明下手な部分を自分なりに再構築して、ようやく辿りついたものだった。
というわけで、判り易さにも配慮された「ヴィレッジ」には、残念ながら及ばない。ただ、繰り返しになるが、とんでもないアイデアを実行に移すシャマラン監督の勇気には、惜しみない拍手を送りたい。
なお、シャマラン監督は、この映画のあと、異星人の侵略と信仰の回復をテーマにした怪作「サイン」を撮る。「シックス・センス」や「ヴィレッジ」などの優れたミステリ映画をとりながら、なぜ「サイン」のようなとんちんかんな映画を撮るか、実に謎である。[★★★]

(以下ネタばれ)
デイヴィッドを不死身の正義の味方だと見抜いたイライジャは、それを確かめるために、さまざまな事件を起こして、彼のアンブレイカブルを試していた。多数の死者を出した列車事故も彼の仕組んだものだった。
デイヴィッドがアンブレイカブル=正義の味方というだけでなく、イライジャはコミックの世界における悪役という役割を担っていたことが明らかになる。すべてがコミックの世界の物語であったことを暗示して幕となる。

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