June 30, 2005
原作は太田蘭三の小説。それを犬童一心が映画化。勝手にドナルド・E・ウェストレイクか天藤真あたりの痛快なクライム・コメディを期待したいところだけれど、それはいくらなんでもないものねだりというものか。ともあれ、DVDのパッケージに、クールに佇む4人の初老の男たちの姿があり、それがやけに清々しく思えて、観てみたくなった。
有料老人ホームで何不自由ない日々を送る老人たち。しかし、彼らの中には、余生を送ることに対する焦燥と諦めがそれぞれに去来していた。そんな中で、仲間の源田(藤岡琢也)がこの世を去り、葬送曲がわりに軽快なジャズが流れる洒落た葬式が行われるが、彼は仲間たちに遺書代わりの計画書〝死に花〟を遺していた。そこには、近所の銀行を襲撃するプランが書かれており、近所の河原から地面の下を掘り進み、地下の金庫に真下から穴を穿けるという大胆不敵な内容だった。
菊島真(山崎努)、穴池好夫(青島幸夫)、伊能幸太郎(宇津井健)、庄司勝平(谷啓)の四人は、河原で暮らす浮浪者(長門勇)を仲間に抱き込み、穴掘りの最新鋭の道具を揃え、計画に着手する。ところが、工事を始めるやいなや、ターゲットの支店が合併により閉鎖されることが判り、計画を急がねばならなくなった。必死になって掘り進む彼らの努力が実り、あと一歩というところまで漕ぎつけた彼らだったが、そこに折あしく台風が接近する。菊島は、トンネルの入口を土嚢で塞ぐために、現場にひとり戻る。いつまで立ってもホームへ戻らない彼を心配して、皆は現場にかけつけるが、そこには呆然と佇む菊島がいた。彼は、そこに何をしにきたのかを失念してしまい、トンネルは溢れた水が流れ込み、水没してしまっていたのだ。
高齢者問題を避けて通れないことは想像がつくが、それが深刻なテーマとして観客の目に映るようでは、クライム・コメディとしての成功はおぼつかない。犬童監督は、菊島と明日香鈴子(松原千恵子)との老いらくの恋を描いたり、1000人斬りをめざすと豪語する穴池の老いて益々盛んな行動をコミカルに描くことで、シリアス一辺倒になるのを防いではいるが、時にそのテーマが重たく観客に重くのしかかってくるのはやむをえないところだろうか。
台風が来てからの破天荒な展開は、そこまでやるか、という過剰感が湧いてこないではないが、大胆さがあってなかなか痛快。いくらなんでもそれは無理(あれで警察が来ない、というのはありえないでしょう?)、という次元の問題なのだが、SFX駆使のスペクタクルも見せ場になっていて、見所にもなっている。ただし、ラストシーンで菊島が子どもに戻ってしまうのは、身につまされた。考えてみると、〝初老〟とは、古くは四十過ぎに対する総称であったとか。もはや高齢者予備軍のわたしに、その切ない結末を笑う余裕はなかった。
闊達なヒロインとして登場する星野真理が颯爽としており、ほれぼれするが、あまりプロットに絡んでこないのが惜しまれる。逸材だと思うのだが。[★★]
(以下ネタばれ)
トンネルに流れ込んだ水の力は、銀行の土台を動かし、建物を傾かせてしまう。ここぞとばかり、建物に入り込み、金庫を破ろうとする4人組。朝までの突貫工事で、見事強奪作戦は成功する。
トンネル掘削の過程で、戦時中の防空壕と思われる空間を発見する。そこには、大人と子どもの曝首と人形などの遺品があった。遺骨と遺品は、老人ホームの最年長者青木六三郎(森繁久弥)の死に別れた家族だった。青木は、「ようやく一緒になれた」と涙を流す。彼らは、源田の意図は、この防空壕を発掘することだったのではないか、と思い至る。
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June 29, 2005
「ヤング・マーブル・ジャイアンツ」というタイトルに、はは~ん、とようやく思い至ったのは、不覚にも舞台の進行が終盤に差し掛かってからのことだ。なるほど、若くて、まだ開花していない大輪の可能性を秘めた役者たちの才能に敬意を払っての命名であったか。KERA・MAPの新作は、すべてオーディションの新人たちで演じられている。吉祥寺の新しい劇場〝吉祥寺シアター〟の柿落とし公演である。
ダンスを交えた出演者総出の大掛かりなモブシーンがあって、ストーリーが始まる。ふたりで暮らす姉と弟の物語である。姉の消崎由香(宗清万里子)は、所帯持ちの男密かに交際しているが、その関係になんとか終止符を打とうとしている。弟の消崎健太郎(野部友視)は、学校でクラスのいじめっ子である、教室でリストカットするなどの問題児であった。健太郎はリストカットで入院した病院で、ひとりの少女夏川香江(初音映莉子)と知り合う。彼女は、不治の病のボーイフレンドがいるが、ひょんなことからふたりは仲良くなる。やがて、偶然にも彼のクラスに転校してきた彼女に、次第に惹かれていく。
一方、由香は、病院からの連絡で、入院した弟のもとを訪れるが、彼がクラスメートたちを苛めていたらしいことを知る。彼女は、弟とのコミュニケーションを図ろうとしていたが、なかなかうまくいかなかった。やがて、別れた男が自殺をしたことから、彼女はその家族から責められ、賠償金を要求されることに。姉は、弟との関係を修復していくために、以前から身近な話を寓話に仕立て弟に聴かせていたが、それをさらにエスカレートさせていく。
無料で配付されるプログラム(これが豆本仕立てでなかなか洒落ている)にケラが気の利いた事をコメントしている。彼は、両極ともいうべき芝居のスタイルを旅に例えて2つ挙げている。すなわち、治安のいい国を観光するような芝居と、未開の密林を彷徨するような芝居。今回の海のものとも山のものともつかない役者が山のように舞台に上がる「ヤング・マーブル・ジャイアント」は、もちろん後者である。
なるほど、ややもすると過剰に迫ってくる寂寥感や閉塞感。とにかく未熟さゆえのマイナスな空気がそこかしこに充満した芝居である。ケラは、そのややもすると濃密によどむ空気を、彼なりの演劇という手法で、時に毒を薄め、そして時に毒をさらに盛りつける。ややもすると混沌とした印象があるのは、主に役者たちの力量の限界が原因なのだろうが、自らをアピールしようとするエネルギーが、ともあれドラマの継続を支えていく。
旨いな、と思ったのは、由香が弟のために作り話をしていく中の一エピソードとして登場する荷物運びをするふたりのOLの話だ。キンギョ(皆戸麻衣)とフナワ(小林由梨)という名のコンビを登場させ、彼女たちに丁々発止のやりとりを交わさせる。これが、ちょうどいい加減に物語りの狂言回しの役割を果たしていた。息苦しい物語展開の中にあって、ここだけは心地よく息抜きが出来た。とりわけ、B-amiruの小林のチャーミングな芝居ぶりは、次を観たいと思わせてくれるものがあった。
出演者たちの未熟さはもちろん目立つが、最後は、舞台裏の搬入口まで開放する芝居づくりもあって、ケラが全力投球しているのは十分理解できた。吉祥寺シアターという新しい劇場の魅力もフルに活用した芝居としては、成功だったと思う。ここのところの半年に4公演という、20年目を迎えたというケラの旺盛な創作意欲には、心からのリスペクトを捧げたい。よし、次はいよいよ8月の〝健康〟の復活だ!
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June 26, 2005
この映画を観ていて、『世界がもし100人の村だったら』というベストセラー本のタイトルを思いだした。都会や文明から遠く離れ、わずかな人々が身を寄せ合い、自給自足で牧歌的な日々を送っている。舞台は、ペンシルバニアにある山間の村と思しい。冒頭、大写しにされる墓碑銘から、観客は19世紀後半という時代を思い浮かべるだろう。
この地を都会や文明から切り離しているのは、隣り合わせに佇む鬱蒼とした禁断の森であった。村には、その森をめぐる厳しい掟があった。すなわち、何者もその森に絶対に入ってはならない。そこに棲む〝口にしてはならぬもの〟と村との間には、平和協定のようなものが存在する。互いに領域を侵犯さえしなければ、彼らが村人に危害を与えることは絶対にない。村人の間では、そう伝えられてきた。
ところが、この共同体をまとめる村の年長者たちに、進言をする若者が現れた。その男ルシアス(ホワキン・フェニックス)は、森を越えて向こうの世界に行き、医薬品などを手に入れるべきではないか、と控えめに主張する。ルシアスは、ある日それを実行に移すが、その晩、たちまち〝口にしてはならぬもの〟からの恐怖の警告があった。
しかし、そのルシアスは、知恵遅れの友人ノア(エイドリアン・ブロディ)から受けたナイフの刺し傷で感染症にかかり、生死の境を彷徨うことになる。ルシアスの盲目の婚約者アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)は、父親エドワード(ウィリアム・ハート)の助言を受け、薬を手に入れるため、掟を破り、禁断の森を抜けて町へと向かう決心をする。途中、森の中で〝口にしてはならぬもの〟からの襲撃を受けるが、相手を撃退し、森の外れに辿り着く。
異星人の侵略と主人公神父の信仰の回復をちぐはぐに結びつけた前作「サイン」でブーイングの嵐を巻き起こしたM・ナイト・シャマランだが、「シックス・センス」、「アンブレーカブル」と、本来はトリッキーな映画づくりを得意とする監督である。この「ヴィレッジ」は、公開時の評価は割れたようだが、ミステリ映画としてなかなかの出来映えではないかと思う。個人的には、これまでのベストに推したい。
映画初出演というブライス・ダラス・ハワード(ロン・ハワードの娘だそうな)が実に輝いており、愛のために行動する盲目のヒロインの、聡明で意志の強い役柄を、実に瑞々しく演じて、観客を魅了する。脇を固めるシガニー・ウィーバーやウィリアム・ハートが堅実な演技を見せ、エイドリアン・ブロディは友人たちとの三角関係からはじき出された寂しい道化者の役を切なく演じきる。これら俳優陣の活躍は、シャマラン監督のあざとい演出を側面からリアリティで支える大きな役割を果たしている。
プロットでいうと、閉ざされた村、禁断の森、といういかにも胡散臭いガジェットから、何かあるぞ、という警戒心を観客は当然抱くのだが、物語の中盤、〝口にしてはならぬもの〟の正体を暴いておいて、その緊張感をシャマランは一旦断ち切る。しかし、そのあとにこそ、この映画の本質ともいうべき、なかなか現代的で気の利いた結末が、観客を待ち受けているのだ。
村の存続を危険にさらした一連の出来事を、逆手にとってプラスとするエンディングも見事。児童文学からの盗用という噂も囁かれているようだが、仕掛け自体に剽窃を取りざたされるほどの独創性もないので、これはシャマラン監督とそのスタッフの手柄と言っていいのではないかと思う。[★★★★]
(以下ネタばれ)
〝口にしてはならぬもの〟は、村を治める年長者たちが、村の平和を守るために作り上げた虚構だった。年長者たちは、〝口にしてはならぬもの〟の脅威で、村人と外の世界の行き来を遮断していたのだ。そもそも、この村は、凶悪犯罪などの犠牲者たちが寄り集まり、暴力や悪意が蔓延する外の世界との関係を一切絶ち、自分たちだけで平和に暮らしていくことを目的として結成された集落だったのだ。
森でアイヴィーの前に立ちはだかった〝口にしてはならぬもの〟の正体はノアだった。彼は、年長者たちが村人への威嚇用に保管していた衣装を身に着け、森へ出入りしていたのだった。
町へ出たアイヴィーは、森林警備隊の男と出会うが、盲目の彼女は薬をくれた相手がどういう人間だったのか分からないまま村へ帰り着く。年長者たちは、〝口にしてはならぬもの〟の言い伝えをこれからも守っていくことを話し合う。
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June 25, 2005
昨今、これほど物議をかもした映画も珍しいのではないか。ジョゼフ・ルーベン監督の『フォーガットン』である。この映画、翻訳ミステリの専門誌にも、堂々たる1ページ広告が載っており、なんでも、「シックス・センス」以来、もっとも衝撃的なスリラーとの触れ込みのようだ。巷の噂では、観客の好奇心を鷲づかみにするような謎が冒頭に用意されているらしい。となると、根っからのミステリ・ファンとしては、映画館に足を運ばざるをえないではないか。
一人息子のサムを失った痛手から、テリー(ジュリアン・ムーア)は傷心の日々を送っていた。飛行機事故が、サムをはじめとする11人の少年少女の命を奪ったのだ。14か月前のこの悲劇的な出来事から、いまだ立ち直ることができないテリーは、サムの使っていたグローブやアルバムの写真を取り出しては、思い出を反芻する日々を送っていた。
そんなある日、いつものように遺品を箪笥から取り出そうとすると、それらが跡形もなく消え失せていた。夫のジム(アンソニー・エドワーズ)は、なだめようとするばかりで、彼女の話に耳も貸さない。かかりつけの精神科医マンス(ゲリ-・シニーズ)は、彼女が流産のショックから架空の家族を作り上げたのだ、と説明した。半狂乱になった彼女は、同じ事故で娘を失ったアッシュ(ドミニク・ウェスト)を訊ねるが、彼もまた娘がいたことを否定し、テリーを警察に引き渡そうとする。しかし、その直後、彼は自分に娘がいたという記憶を取り戻し、国家安全保障局へ連行されかけていた彼女の逃走に手を貸す。かくして、テリーとアッシュは、国家機関の追跡をかわしながら事件の秘密を追うことになる。
最愛の息子を失った母親のもとから、引き出しに入れておいたはずの遺品がなくなり、アルバムから写真が消え、ビデオテープからは画像が失われる。そしてついには、周囲の人々から息子が存在したという記憶までもが消え失せていく。この映画が観客につきつける謎は、非常に怖ろしく、そして魅力的だ。
しかし、ミステリとしての興味もここ(最初の30分か)まで。記憶のメカニズムの問題か、国家的規模の陰謀説などで引っ張ることも出来た筈だが、この映画がいわゆるミステリ映画でない印は、比較的早い時期に、観客にしめされる。この辺を拍子抜けととるか、真相の馬鹿さ加減を笑えるかで、この映画を楽しめるかどうかが分かれるだろう。わたしは、呆れたけど、賛否両論を事前に知っていたこともあって、がっかりもせず、その後の展開を楽しめた。(とりわけ、犯人が邪魔な人物を連れ去るシーンは、かなり笑えた)
この映画のテーマである親と子の絆をめぐっては、印象的なシーンがある。テリーと事件をめぐってパートナーシップを組むことになるアッシュが、壁紙の下に現れた落書きを眺めるうちに、娘の存在を思い出すシーンで、ここは感動的だった。ひたすら本能的に突き進むテリーとは対照的ではあるが、ここにもまた子を思う親の姿がしっかりと描かれている。
真犯人は、ある場面では強烈で、可笑しくもあり、また怖くもある。しかし、仕掛けというよりはまさにオチで、予告編であれ、宣伝であれ、そのサプライズだけを大げさにPRするのは、どうかと思う。といっても、それが向こうサイドの戦術なんだろうけどね。評価は、ミステリ映画としてのものです。[BOMB]
(以下ネタばれ)
すべてはエイリアンの仕業でした。(ちゃんちゃん)エイリアンは、地球人の親と子の絆に興味を持って、実験を行っていた。その絆を断ち切るために、飛行機事故に見せかけ、こどもたちを誘拐し、親たちの記憶からこどもを消し去ろうと試みていたのだ。かかりつけの精神科医は、エイリアンの手引きをしていた。
実験は、ほとんど成功したかにみえたが、テリーの場合だけは記憶を断ち切れない。実験担当のエイリアンは、テリーと息子サムの関係を断ち切ることにやっきとなるが、やはり失敗。実験担当のエイリアンは時間切れで更迭されてしまう。最後にこどもたちは全員解放され、親たちにも記憶が戻される。
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June 21, 2005
「対自核」や「パラノイド」いった遥か昔のシングルヒットくらいしか知らないわたしが、ユーライア・ヒープとブラック・サバスのコピーバンドのライブに足を運んだのは、もちろん別の動機がある。それぞれのバンドに、気になるアーティストが参加しているからだ。すなわち〝幽霊や!きょ~ふ!〟にはアンジー(ノヴェラ、シェアラザート)が、そして〝OSAKA NEON KNIGHTS〟には、森川健司(ex.ソフィア)青木彰一(テルズ・シンフォニア)大久保寿太郎(スターレス、ファイガ)が、それぞれ名を連ねている。
その中で、とりわけ気になったのが、ソフィアの森川健司である。ソフィアといっても、近年ヒットを飛ばし、TVの歌番組に出演しているソフィアではない。かつてジャップス・プログレの屋台骨を支えた同名の関西のバンドで、80年代に大活躍した。ソフィアのサウンドは、ラッシュとノヴェラタイプのプログレハードを融合したような強力なもので、当時は東京にもよく遠征してきて、わたしはエッグマンで観た彼らの素晴らしい演奏が、えらく心に焼き付いている。自主制作のミニLPとキングのネクサス・レーベルから正式なファーストアルバムをリリースしているが、当時の彼らの凄さを伝える音源とは言い難く、今も彼らのことを思い出すと、残念でしょうがない。
森川は、そのバンドのボーカリストで、とにかく声域が広く、メロディアスなナンバーにも情感を込められる歌い手だった。今回のライブは、わたしとしてはおそらく20年ぶりくらいの再会となるわけで、告知から当日まで、非常に楽しみにしていたのだが、その期待は裏切られなかった。さすがに、ルックスこそ当時のめだって華奢だった体に少々肉はついていたが、声の艶はほとんど衰えを感じさせない。MCもなしに、立て続けに数曲をぶっ通しで歌いながら、まったく息切れすることなく、曲を歌い継いでいく。他のメンバーも、リラックスしながらも、持ち前のテクニックを遺憾なく発揮し、プログラムを進めていく。MCでは、自らをブラック・サバスではなく、ロニー・ジェイムズ・ディオへリスペクトを捧げている、というようなコメントもあって、なるほど選曲の幅はサバス一辺倒ではなかったようだ。
一方の〝幽霊や!〟は、ツインリードボーカルでのステージ。ボーカリストの声質が、まったく異なるせいか、コーラスなどの小技が見事に決まっていく。キーボードにハモンドが入っているので、叙情的な曲ではプログレ風味を大いに醸す。ハードロック一色だろうとたかを括っていたわたしとしては、嬉しい驚きだった。
あと、特筆すべきは、ギタリストの金谷幸久の超絶テクニックだろう。わたしは、この人をまったく知らなかったが、実に自在に、自由度の高いギターをプレイする人と見受けた。〝幽霊や!〟は、彼とアンジーの雑談から始まったと聞くが、考えてみると非常に贅沢なコラボレーションを含むバンドだ。
プログレ・ファンとしてとても嬉しかったのは、〝OSAKA〟のアンコールで、シェアラザードの曲をやってくれたことだ。それもナント3曲も。最初の「鏡」の途中からは、なんとアンジーも飛び入りし、往年の名曲をふたりで切々と歌いあげた。
森川のボーカルを久しぶりに聞いてしみじみ思ったのは、非常にもったいないということだ。現在、どういう活動をしているかは不明だが、ソフィア解散以降は、これといったパーマネント・バンドでの活動の噂を聞かない。ソフィアの再結成は無理だとしても、ボーカリストの彼を必要としているバンドは、いくらでもあるだろうに。
蛇足だが、会場の中野サンクチュアリーは、西武新宿線にいかにもローカルな駅、沼袋から徒歩5分ほど。そこそこの広さがあるし、ステージも狭すぎず、なかなかいいライブハウスと見受けた。当日の会場には、スターレスの新ボーカリスト荒木真偽ちゃんの姿もあった。次の機会には、ここをホームグラウンドとする彼女のバンドのライブにぜひ足を運びたいものだ。
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June 19, 2005
詐欺師たちの騙し合いの物語だと聞いて、コンゲームなどのミステリ映画を勝手に連想していた。監督は、大谷健太郎。TVなどでお馴染みの顔ぶれがキャストを固めるオールスターの俳優陣もあって、公開時はそれなりの話題を集めたと記憶している。
大阪から札幌へと向かう寝台夜行列車トワイライト・エクスプレス。その客室では、ニセモノの羽毛布団を売りさばき、大儲けを企んでいる若い6人の男女がいた。かつて彼らは同じ詐欺チームの仲間だった。3年前に、仲間の裏切りが原因で分裂した彼らだったが、久々に招集がかかり、一堂に会した。
志方(椎名桔平)は、かつてグループを率いるリーダーだったが、3年前の失敗のショックから、腑抜け同然の状態になっている。今回の計画は、そんな志方に替わって、久津内(田辺誠一)が計画したものだったが、どこか頼りなく、なかなかグループを掌握しきれない。おまけに、アル中を克服した佐々木(妻夫木聡)と新メンバーの横山(八嶋智人)は、美人の宝田(中谷美紀)をめぐって、何かと摩擦を起こす。さらに、久津内が、3年前の裏切りの原因ともなった今井(伴杏里)を仲間に引き入れたことで、チームの間にぎくしゃくした空気が流れはじめる。ところがあにはからんや、計画の方は首尾よく成功。儲けの大金を大きなトランクにつめこみ、彼らは帰路につくが、その途中で、現金の入ったトランクが忽然と消えてしまう。
全編、走行中の列車内だけで繰り広げられる密室劇、というのも元になったのが舞台劇と聞いて納得。(原作は、脚本のチームの一角を占める土井英生)しかし残念ながら、その密室という状況は、この映画の場合、あまり活かされているとはいえない。せめてトランク消失の不可能性にもう少し話が向けば、この舞台を固定したシチュエーションは生きてきたかもしれないのだが。出来上がった映画は、むしろ物語の閉塞感の方が前面に出て、ドラマはせせっこましい印象を観客に与えているのではないか。
ドラマの鍵を握るのは、胸の大きさをめぐって対照的に描かれるふたりのヒロインなのだが、ふたりが対決するクライマックスは、ミステリを青春ドラマにすりかえられたような肩透かし感が残る。脚本の着地点は悪くないと思うが、平凡。ミステリとしての価値は、ないに等しい。なお、タイトルは、人はいったん嘘をつくと、そのせいで30もの小さな嘘をつかなければならなくなる、という登場人物のひとりが口にする人生訓から取られている。[★★]
(以下ネタばれ)
消失したと思われた現金は、別のトランクに隠されていた。トランクはふたつあったのだ。志方と佐々木の共謀だったが、志方はそれを独り占めし、今井とともに途中下車し、持ち逃げしようと企む。自信を失い、追いつめられていた志方は、チームの仲間たちとの関係にピリオドを打つことが目的だった。駅に着く寸でのところでカラクリを見抜いた宝田は今井と対決し、金をもって行っていいから、志方は連れていかないでくれと懇願する。かくして、今井は現金をもって下車。志方は、宝田に勇気付けられた結果自信を回復し、チームは結束を取り戻す。
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June 16, 2005
アルティ・エ・メスティエリ。この〝芸術家と職人たち〟を名乗るグループがイタリアにいるということを知ったのは、国内盤として〝TILT〟がわが国で初リリースされた時のことだから、相当に古い。当時、ミュージック・マガジンの新譜評で、誰のコメントだったか、このアルバムが高い評価を得ていたのを記憶している。
その頃は、ヨーロッパ全域で盛んになりつつあったユーロロック(いわゆるプログレ)が、わが国のリスナーの間にもようやく伝わり始めた頃で、メディアもまだまだ好意的にそのムーブメントを受けとめていた。さっそく購入し、針をおろしたアルティのLPは、当時ポップスを卒業したばかりのティーンエイジャーにはいささかハードルが高く、すぐには馴染めなかった。しかし、背伸びしながらも聴きこむうちに、彼らのファーストアルバムは、やがて音楽嗜好としてわたしの体に染み込み、のちのイタリアン・ロックやジャズロック嗜好の下地が作られていったものとおぼしい。
そんなわたしだが、バンドの結成から30年以上が経過しての初来日のニュースは、実はさほど期待する気持ちが起きなかった。当然メンバーの多くは交替しているだろうし、そもそもバンドがそんなに長い間、初期の高いテンションを持続できるとは思わなかったからだ。しかし、そんな油断を、アルティの面々は、挨拶代わりの1曲目で、いとも簡単に打ち砕いてくれた。クラブ・チッタの幕があがると同時に、観客席のわたしはいつも簡単に打ちのめされたのだ。それが、〝TILT〟の1曲目であると同時に、彼らの代名詞ともいうべき〝Gravitia 9.81(重力)〟である。
いやー、すごい。イントロに漂う緊張感にも圧倒されたが、ベッペ・クロヴェッラのピアノの力強いバッキングパートが始まるや、劇的にアルティの独特の世界が広がっていく。アルフレード・ポニッスィのサックスとコッラード・トラブイオのバイオリンが、ジャジーな雰囲気の中で絡み合い、会場を彼らの音楽に染まった空気で満たしていく。これまで、散々彼らのレコードやCDは聴いてきたけど、これほど管楽器とバイオリンが骨格の要になっていることを認識したことはなかった。これは、実に新鮮で嬉しい発見。
一方、名手フリオ・キリコのドラムと、年季の入ったベッペ・クロヴェッラのキーボードも、彼らの音楽の血であり肉であることが伝わってくる躍動感を醸し出している。オリジナルメンバーたちの技量に、長い歳月を経てもまったく翳りがないことに驚かされる。
しかし、懐かしい顔ぶれのプレイを楽しむだけなら、よくある集金ツアーでも十分堪能できる。彼らの凄いところは、過去の栄光ではなく、現在のアルティ・エ・メスティエリとして堂々たる存在感を誇っているところだ。
その秘密は、旧メンバーの存在に、新しいメンバーたちの参加が単なるサポートに終わらず、その音作りに有機的に絡んでいるからではないか、と思った。ギター、ベース、バイオリンといった楽器を受け持つ若者たちの技量は、なるほど素晴らしいものだったが(とりわけ、ボーカルのマッシミリアーノ・ニコロのボイス・パフォーマンスはアレアもかくやという素晴らしさ)、彼らが一見控えめに見えながら、バンドのアンサンブルに深く関わっているのは、そのステージで繰り広げられる音楽の完成度から十分に伺われた。彼らは、往年のバンドがなかなかなしえないバンドとしての若さを今も持ち続けている希有な例ではないか。
アンコールを含めると、なんと3時間弱。ファーストとセカンドの曲は、ほとんどやったと思う。この長時間を息切れなく演奏しきったメンバーの緊張感の持続にも舌を巻く。メリハリのきいた選曲や、激しい演奏と表裏一体のジェントルなステージングにも非常に好感がもてた。プログレ人生屈指のライブ体験でありました。
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June 12, 2005
AGAPE storeの芝居は、1月の「Bigger Biz」に続いて二度目。松永玲子さんのセクシーな姿がお目当てという不純な動機で観た前回だったが、芝居としてはやや土臭いというのが正直な印象だった。それなりに笑えたコメディだったが、松尾貴史ばかりが目立っていた。(続編は楽しみにしているが)で、今回の動機は、ケラの本だ。『仮想敵国』は、“Seven 15minutes Stories”という副題にあるとおり、7編のコメディ短篇からなるオムニバスで、それぞれ作者が違う。予告を見ると、後藤ひろひとや長塚圭史の名に交じって、ここのところ贔屓のケラリーノ・サンドロヴィッチがあって、だったら観てやろうと思った。実は(ははは)辺見えみりのファンでもある。
主君の命を受け、敵の城に忍び込む7人の忍者たちを描く土田英生の作品は、ルーティンどおりのお話だが、繰り返しのギャグが笑える。原発の清掃委託業務をテーマにした怖い話は、千葉雅子の作品だったか。そして、最後に2時間ドラマの結末を題材にしたケラの
ブラックなお笑い。これがベスト3か。テロ事件で犠牲となった妻と死体置き場で対面する男の悲喜劇を描く第1話は、いかにも長塚圭史らしい作品だが、短篇としての切れがない。もしかしたら、長篇の素材だったかもしれないという気にもなる。後藤ひろひとの戦場コメディも、ネタが明らかになってくればくるほど笑えたが、あと一歩。
彼らの芝居には、松尾貴史のリーダーシップはやはり不可欠なようで、個性的な役者たちはそれぞれに熱演しているのだが、松尾のずっこけがないとしまらない。(というか笑えない)春風亭昇太の狂言回しは、いい味もあるのだが、芝居が下手なために詰めを欠いていて、煩さが先にたっておる。贔屓の辺見えみりはまだまだ固く、残念ながら次回以降に期待というところに留まった。
全体をつなぐインタルードも凝ったつもりなのだろうが、わずらわしい印象が残った。聞くところによれば井手茂太演出のダンスらしいのだが。このレベルのお笑いであるならば、せめてもっとサクサク見せてほしかった。
カーテンコールで『BIGGEST BIZ~最後の決戦!ハドソン川を越えろ~』の予告をやった日があったらしいのだが、わたしが観た日はなかった。くーっ、残念。
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June 08, 2005
キャラメルが表紙いっぱいにならぶ装丁を見て、ふと恋愛は人生のおやつのようなものかもしれない、と思った。確かに、恋愛のない人生というのも存在するかもしれないが、しかし、それはおよそつまらないものに思えるからだ。人間、主食だけでは味気ない。甘くて、時に苦い後味を残す恋愛も、やはり人生には必要なのではないだろうか。
表題作の「風味絶佳」には、キャラメル好きの老嬢が登場する。老いても毅然とした人生を送り、色恋沙汰においても現役バリバリの彼女は、何かというと「脳への栄養」だといって、主人公の口へキャラメルを押し込む。主人公は彼女の孫なのだが、恋愛経験も薄く、男としても頼りない。そんな主人公は、彼女を目の上のたんこぶだと思っているが、彼女から実に多くのことを学んでいく。
本作品集のハイライトは、なんといってもこのポップでお茶目な表題作に違いない。老嬢のポジティブな存在感を鮮やかに描き出す一方で、食えない祖母との関係を通して、主人公の成長をさりげなく暗示する。作者からの、恋愛に引退年齢などないのだよ、という心地よいメッセージもじんわりと伝わってくる。実に後味の良い仕上がりだ。
しかし残りの五編の印象は、どちらかというと、そこはかとなく地味だ。根底にこそ山田詠美の恋愛至上主義が垣間見えるものの、甘さ一辺倒の恋愛賛美に終わらない。むしろ人の縁や人生の機微によって、男女の人間関係はかくも違った様相を見せるものかと、いつも感心させられる作品が並んでいる。
帯の「ままならない恋に風味あり」というコピーにも惚れ惚れした。恋せずにはいられない人々を描いた恋愛文学の最高峰、と言っておく。
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June 05, 2005
ドラムスのかしぶち哲郎が病欠でのライブ。前回のツアーは、キーボードの岡田が不在だった。フロントマンの鈴木慶一は、こういう状況だと観られるときに観ておいた方がいい、とか、生存確認の集まりみたいだ、みたいな冗談を舞台上から飛ばしている。しかし、考えてみると、メンバーがそういう年齢にさしかかるまでバンドが存続すること自体、素晴らしく、そして稀有なことだと思う。しかも、ライブに先行してリリ-スされたニューアルバム「P.W Babies Paperback」の出来映えがこれまた良かったことを考えると、ある種奇跡のようだともいえるのでないだろうか。
さて、会場の渋谷AXでのライブというと、1Fはオールスタンディングのことが多いような気がするけれど、この日は半分以上に客席が設置されていた。これも、ミュージシャンと同様に、ファンの年齢をも考慮してのことだろうか。わたしは立見なので、1Fの後方壁寄りに自分の位置を確保する。
予定時刻を10分ほど過ぎ、演奏が始まる。新作アルバムと同じく、イントロダクションの音楽が流れる中、突然、曲がカットイン。「Frou Frou」である。予想を裏切るような形で、前半は過去の代表曲が並ぶ。しかし、それらの曲がウォームアップであったかのように、体が暖まった彼らは、次第にテンションを高め、新曲を披露しはじめる。ドラマーはカーネーションから矢部のサポート。その若々しいドラミングからはかしぶちほどの深い情感は伝わってこないが、タイトなリズムを刻み、バンドの演奏を引き締めていく。
ところで、この日バンドとしてのテーマがどこにあったかは不明だが、ボーカルのパートをメンバー間でいつも以上にめまぐるしく持ち替え、廻していく趣向はユニークだった。もともと、鈴木慶一のボーカルは脆弱なところもあり、そういう意味では他のメンバーがボーカルをとってもなんらライダーズの曲として遜色はない。むしろ、歌の線は細いものの、その分メンバーの個性が前面に出てくる感じがして、面白かった。
あと、「夢ギドラ85’」だったと思うが、歌のパートに続くインストをインプロ風に引き伸ばしたカンタベリー調の演奏が素晴らしかった。またこの日、とりわけ目だっていたのは武川で、トランペットをはじめとして、さまざまな楽器を持ち替え、ライダーズの演奏を色彩と色気を付加していく。声の出もよく、ボーカル曲ではなかなか艶っぽい歌声を聴かせてくれた。
ほぼ2時間、アーティストとオーディエンスも、ヘトヘトになるほどの時間ではないが、しっかりとした満腹感が残った。石の上にもウン年というわけではないが、ライダーズの息の長さは、昔からのロックファンの心の支えのようなものになってるような気がする。彼らとともに齢を重ねることの心地よさを再確認したライブでありました。
(セットリスト)
1.Frou Frou 2.Who's gonna die first? 3.グルーピーに気をつけろ4.Modern Lovers 5.さすらう青春 6.Morons Land 7.銅線の男 8.ボクハナク 9.30 10.犬にインタビュー11.夢ギドラ85’ 12.Wet Dreamland 13.スペースエイジのバラッド 14.ヤッホーヤッホーナンマイダ 15.水の中のナイフ 16.地下道Busker's Waltz 17.Waltz for Postwar.B
(アンコール)
18.今すぐ君をぶっとばせ 19.BEATITUDE
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June 02, 2005
極東の島国では、イギリスとアメリカをひと括りにして英米などと言ったりする。しかしながら、同じ英語圏でありながら、双方の文化はある意味非常に対照的である。濃い紅茶と薄いコーヒーほどの違いとでも言ったらいいだろうか、風土や気候、さらにはそこで暮らす人々の気質の違いから、生まれる作品世界に流れる空気は、まったくの別物と言っていい。それは映画についても同じで、ガイ・リッチー監督の犯罪映画『ロック、ストック・アンド・ツー・スモーキング・バレルズ』からは、いかにもイギリス産のテイストが漂ってくる。
エディ(ニック・モーラン)、トム(ジェイソン・フレミング)、ベーコン(ジェイソン・ステイサム)、ソープ(デクスター・フレッチャー)の四人組は、ロンドンの裏町で一攫千金を夢見るチンピラである。エディのカードの腕前を利用し、なけなしの資金をかき集めた彼らは、イーストエンドを牛耳るポルノ王のハチェット・ハリー(P・H・モリアーティ)に一世一代のギャンブルを挑む。ところが、エディの父親JD(スティング)が経営するバーを手に入れようと目論むハリーは、イカサマで彼らを返り討ちにしてしまう。
多額の借金を背負った彼らが苦肉の策として思いついたのは、隣の部屋に住む麻薬の売人ドッグと仲間たちの上前をはねる事だった。怪しいルートで散弾銃を手に入れ、念入りに練った襲撃計画は、あっさりと成功する。ところが、偶然の悪戯で、彼らの犯行をドッグに知られてしまう。かくして、激怒するドッグは、皆殺しのために武装した仲間たちを彼らの部屋に送り込むが…。
と、メインのストーリーのみを記したが、実はとても複雑にいくつもの物語が錯綜する構成になっている。マリファナ栽培に手をそめる上流階級出身のお坊ちゃんたちや、怪しげな麻薬のディーラー、ポルノ王の用心棒にそそのかされて骨董品の散弾銃を盗む小悪党のコンビ、汚い言葉遣いを嫌う子連れの取り立て屋たちのエピソードが並行して語られ、それらが複雑に絡まっていく。ところが、ひとつひとつの話は一見ばらばらだが、やがて皮肉な運命の女神に導かれて、とんでもない結末に向かって、急速に収束していく。
当時まだ二十代だったガイ・リッチーの脚本は実に見事で、アメリカだったらエルモア・レナードの小説か、タランティーノの映画といったクライム・フィクションの複雑なタペストリーを織り上げている。妙にクールだったり、微妙なユーモアがあったりと、いかにもイギリスというお国柄を感じさせながら、意表をついた展開と、ツイストの効いたエンディングへと観客を招待する。わたしはハメットの「血の収穫」を思い起こしたりした。
個性的な俳優たちを配したキャスティングも素晴らしい。主人公グループのニック・モーランを始めとする4人組のチンピラぶりがなんともいい味を出しているし、山ほど登場する悪党どもの一癖も二癖もあるキャラクターも、それぞれ独特の存在感をもってスクリーンの中を動き回っている。彼らの人を食った悪漢ぶりを眺めているだけでも、十分に楽しい映画だ。出番は少ないが、スティングの頑固親父役もいい。
映画のヒットを受けて、ガイ・リッチー総指揮のTVシリーズの製作されている。あまり芳しくない評判も耳にするが、機会があればぜひ観てみたいものだと思う。それほど、この映画のキャラクターたちの存在感には、輝きがある。[★★★★]
(以下ネタばれ)
ドッグの命令で4人組を待ち伏せする悪党たちの前に現れたのは、お坊ちゃまたちが栽培する麻薬の元締めであるディーラーの武装集団だった。4人組が強奪した麻薬は、そもそも彼らのものだったのだ。しかし、4人組がアジトを空けていたため、壮絶な銃撃戦の末に、双方全滅する。ドッグも、逃げる途中に、取り立て屋の親子の車を乗っ取るが、返り討ちにあう。一方、ポルノ王とその用心棒も、ケチな小悪党のコンビと相討ち。かくして、4人組と、取り立て屋の親子だけが生き残る。取り立て屋のはからいで4人組は骨董品の散弾銃を手に入れることに。ところが価値を知らない4人組は、それを処分することに。ひとりが銃を捨てに出た後、銃の価値を知った3人は、あわてて仲間の携帯に電話を。橋の踊り場に引っかかった銃を川に投げ込もうとする仲間のひとりに、携帯電話がかかり、銃の運命やいかに、というところで幕。
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